むぎのゴハン

食べるのも作るのもスキ おうちごはん、ライフスタイル中心に書きたいことを色々

会社を半年で辞めました

はじめまして。私、むぎのは、去年の秋に、初めての会社をオサラバしました。オサラバした理由は、2つあります。

 

▼ 心の限界

1つめ。

2017年の3月、身内に不幸がありました。私から見ると、血は繋がっていないけど父にあたる人で、約6年半ほど、母と私をふくめた三人で一緒に暮らしていましたが、私たちは、「家族のありかた」について揉めに揉めました。

もう少し具体的にいうと、―― 2人(私に母と義理の父)が、これから共に生きていくことは、心から祝福するけど、元から〈父親〉の枠がない娘に、どうか〈父親〉を押し付けないで欲しい。

という、ずっと私が押しこらえていたものを、漏らしたことによって、それこそ、親族全員を巻き込むような大火事になった、というところでしょうか。母が失踪したり、死にたいと周りに言いふらしたり、家を出てけと言われたり、たくさん色んなことがありすぎて、もうよく覚えていません。

結果、母とは何度も話し合うことで、どうにか和解はできたのですが、私が家出をしたこともあって、義理の父とは、ひとことも言葉を交わさないままひと月経ってしまい、それでも、周りの大人たちの協力のおかげで、事は収束に向かっていたはず……なのですが、義理の父は、突然の病のため逝ってしまいました。

私は、義理の父と、一言も話せずにお別れすることになりました。なんだか、ドラマでよくあるような話です。

 

正直、今は完全に雪が解けなくても、数年後あたりに、三人で外食行ったりして、お互いの近況報告ができるようになればいいな、時が解決することもあるよね、ってのんきに考えていました。

でも、まさかこのタイミンで、一生のお別れがやってくるとは思ってなくて。

そのときは、「なんでわざわざこのタイミング?」とか、「自業自得な食生活してたし、しょうがないか」とか、まるで他人事みたいな考えばっかり頭に浮かんでいたんですけど、お葬式が終わってちょっと落ち着くと、死んだのは自分のせいじゃないかな、って考えが浮かぶように。

 

似た境遇の人、そして自分自身にも。はっきり言います。

そんなわけはありません。たとえ、私が胸のうちを語ってようが、そうじゃなかろうが、義理の父の死は、生活習慣病によって引き起こされたもの。遅かれ早かれ、訪れるに違いなかったものでしょう。

仮に……もしも、私の一言が、体に負荷をかけて引き起こった死だったとしても、私はそれを後悔してはいけません。後悔するぐらいなら、はじめからやるな、という話で、そもそも、後悔したって死んだ人は帰ってきませんから。後悔は、誰も幸せにならない自傷行為……、それだけは誰もがしてはいけないのです。

当時も、その考えは頭のどこかにはありました。ありがたいことに、周りも「あなたのせいじゃないよ」と度々、声をかけてくれたので。でも、情けないことに、母が悲しむ姿をみるたびに、義理の父に似た人を見かけるたびに、「本当にそうなのか? 本当に私のせいではないのだろうか?」と、問いかけてしまう自分を消せないまま、日々が過ぎていきました。

 

そうして4月、私はそんな不安定な状態のまま、新社会人になりました。

正直、家では今後のことについて、ごたごたと揉めていたから、そのとき、そのとき、を乗り切ることに精一杯で、毎日、新社会人をしている実感はありませんでした。おそらく、ただでさえ使えない新人が、さらに使えないことになっていたと思います。

 

8月頃には、やっとすべてが落ち着いてきて、すると、そのとき、そのとき、ばかりを見つめなくなってもよくなったからか、自分がなんだかおかしい ということに気が付きました。

もう、ポンコツすぎる新人に成り果てた私です。仕事で同じミスを繰り返してしまったとき、仕事を教えてくれる先輩に、「なにがそんなに分からないの?」と聞かれました。

私はそれに対して、「……なんで、ですかね?」と、 困り笑いで聞き返してしまいました。相手の不手際、自分の不手際、どんな理由であったとしても、いつもなら、もっとうまく立ち回れるのに、心が「全部、全部どうしてこうなったの」「そんなのこっちが聞きたい」と、言ってもどうしようもないことを、全力で叫んでるいる心を無視できなくなって。

 

他にも、冗談を冗談として受け止められなくなってたし、笑わなければならない場面で笑えない。元々、朝に弱かったけれど、それを差し引いたって、毎日、冬眠したくなるくらい眠くて気だるかった。何もしたくなかった。原因不明の発熱にも襲われたりもしていました。

それでも、私は、そのすべてを見ないようにしましただって、やっと落ち着いたのに、今頃、あっぷあっぷするのはおかしな話だし、あっぷあっぷ溺れたって、どうしようもない。無視してたら、そのうちどうにかなると、その時の自分の中は思っていました。

 

たぶん私は、今、一番身近で支えてくれている人に、「心も体も、ちょっとお休みしよう」って言われなかったら、やっぱりずっと耳をふさいで、心の悲鳴を聴かないままでいたはず。

でも、そうしていたら、きっと毎日、虚無感に襲われて、うまくいかないことにイライラして、苦しくて、自分も周りもいっぱい傷付けてしまう、孤独な人になってたでしょう。

私の心は、いつも水がいっぱいのコップ状態でした。揺すられたら、あふれないようにする余地もないほど、いっぱいいっぱいで、しかも、あふれ続ける水は、自分だけでは、どうしようもないことに気付けないでいた。

ティッシュとか、布巾……、人に話を聞いてもらったり、楽しいことをしたりして、水を拭わないと。もしくは、ゆっくりお休みして、コップを揺すことを減らし、中の水がひいていくのを待たなきゃいけなかったんですよね。

 

 ▼社会の暗黙のルール

2つ目。社会に出て、私がつまづいたこと。

それは、えらい人よりも、早く出社しなければならない とか、理不尽に怒鳴られることを、「慣れるしかない」で済ませてしまったり とか、仕事の効率? それより、偉い人が誰なのか、一目でわかる席順にしないとね! とか

そういう、社会人として納得できて 当たり前のこと  「社会人だから仕方ないよね、社会人って辛いよね……」で、飲みこむこと。

 

だって、偉い人だろうが、新入社員だろうが人間平等。

私は新入社員だったけど、可能な限りたくさん寝たいし、理不尽に怒鳴られることを我慢して、ああ楽しい! と思える、すばらしい感性は持ち合わせていません。

それに、仕事している人の後ろを1日に何度も通るのは、普通に申し訳ないから、自分が管理しているファイルのそばに座りたい、と思うのは、誰しもみんな同じ話だと思うのです。

 

ある日、席替えをすることになりました。

「君はここのほうが効率いいよ! ここにしようよ!」 と部署内、満場一致で、席替えを終えたにもかかわらず、いわゆる、あたまでっかちな鶴の一声で、まことに効率の悪い席に移動しなければならなくなったときは、「貴様は関係ないだろぉ!!!ばかぁあ!!口出すんじゃねぇえ!!!」って、心が全力で叫びましたね。

同時に、そういうことにこだわる人間が、やっぱ上に行けるんだな、社会ってクソだな、とも。タンスの角に毎日小指ぶつければいいのに、とめちゃくちゃ願いましたね。

 

私は昔から、普通はこうするよね! とか、皆が右向いたから、私も右を向こう!といった考え方に、ぷい、とそっぽを向いてしまいがちです。 元来の性格である、あまのじゃく が、こじれにこじれて、賢く生きるセンサーが、アホウになってしまったんでしょうね。

1人でご飯食べてたら淋しいよ? とか、女の子だから、ピンクでいいよね、スカートでいいよね! とか、男の子なんだから泣いちゃダメ! とか、そうやって、各自が思うのは勝手だけど、頼むから、こっちにまでそれを押し付けて、個性をすりつぶそうとしないで! と心底思います。

 

話を戻しましょう。とにかく、私は、誰もが一度は考えそうなことを考えました。このまま、何十年も同じことしていくの、とか、体裁だとか、自らが負ってきた不遇の強要、それ意味ある? とか、外側のことばかり気にかけるこの人たちに、振り回され続ける人生を送るのかな、とか。

 

大抵の人は、「嫌だなあ……でも、生きていくためには仕方ない……」で、踏みとどまるれるであろうところを、私は踏みとどまれなかった!

いやだって、アホか! たった1度の人生、イヤだ、イヤだ、と思うことで、食いつぶされてなるものか!というか、私、今、二十代!やろうと思えば、なんだって出来るはずの、いわゆる華の二十代!

そもそも、私の性格は、誰もがうなる大雑把で、紙切れ1枚でさえ、正しい場所にファイルできない適当ぶり。そのうえ、モットーは、今日出来なかったことは、明日やる! 明日も出来なかったら明後日!

丁寧、正確、迅速! 事務職に求められるものとは程遠いですね。誰から見ても、事務職向いてないな!!!!!って、急に悟ってしまったのです。

 

なんで事務の仕事に就こうと思ったのか。単純です。外に出ることなく、のほほーんとPCと仕事して、お金を貰いたかったから。

しかし、はっきり言いましょう。たしかに私の考えは、たしかに、わたがしのように ふーんわりとして甘かったです。社会というのは、たいへん厳しく、私の脳みそのように、ゆるーくアバウトに生きていくことを、よしとしてくれませんでした。

 

いつだったか。今でしょ! の林先生も、TVでこんな感じのことを言っていました。 やりたい仕事と、向いている仕事は、けっしてイコールではない。得意分野で仕事すると、好きなことじゃなくても、人よりうまくいくからハッピー!とのこと

なるほど。やりたい仕事じゃないし、向いてもない、未練もない」先生納得の三拍子! 社会人になって、半年しか経たない私にしか出来ない仕事なんてまだないし、私が仕事続ける理由は、まるでなし。ここまで思い至った私は、はじめてのお仕事と別れてやる決心が、ようやく少しだけついたのです。

 

▼「おやすみすることがお仕事」

ひとつ目の話のなかで、「お休みしよう」といってくれたから、会社やめることができた、と語りました。実際、精神的に弱ってた私は、「お金はどうするの!」とか、「辞めたら会社の人が……!」とか、「周りの目が厳しくなる」とか、沢山沢山、さらに追い詰められまくっていました。

 

でも、「お休みしよう」といわれてから、会社によくよく目を向けてみると、あれ、私にここにいなくてもいいんじゃない?! やめてもいいかもしれない!と開き直れたし、ちょうど上司に軽く〈セクハラ〉された後だったので、なおのこと、辞める方向に心が動いていました。それでも、悩みに悩んで相談させてもらったカウンセラーの先生いわく、

 

アナタの人生なのだから、周りの声なんてきかなくたっていいんです。

周りに「それは悪いことだ」って指されても、あなたはね、「これでいいんです」と胸を張っていればいいんですよ。

指をもし指されたとしても、ぎゅっと縮こまらないで。

それだと、本当に悪いことをしたみたいでしょ? 悪いことなんて、本当になんにもしてないのだから、堂々としていればいいの。

 

会社もね、「やめたら迷惑がかかる」って、皆とても悩むけど、実際辞めてもね、代わりの人が入ってくるだけで、しばらくしたら、あなたのことなんて、皆忘れちゃうんだから、きにしなくていいのよ!あなたは、ただのは小さな歯車のひとつなんだから。

だからね、お休みしてもいい、と言ってくれる環境がせっかくあるのだから、それに甘えましょうよ。今のアナタは、おやすみすることがお仕事なの。

 

「おやすみすることがお仕事」そのときの私に、じんわり沁みこんだ優しい言葉。

本当に、今、会社を辞めたい、辞めれない、苦しい、って考えている人すべてに聞いてほしいお話でした。

 そもそも、どうして、働いていない=悪 なのか。皆があくせく働いているから、働かなければ悪なのか。それは、私がずっと嫌ってきた、大衆=正義 の構図ではないのか。

もちろん、これはとても根深い問題で、脳みそがゆるゆるの私が、気軽に触れてもいい問題ではないのでしょうけど、せめて、本当にお休みが必要な人に、「お休みしてもいいよ」って、皆が言えるようになれる社会、お休みできる社会、そして、お休みから復帰しやすい社会になればいいのにな、と思いました。

こういう過程を経て私は、半年で新社会人をリタイアしました。

電話でさっくりと、こういうことがあって、精神的に参っているのでお休みさせてください、と伝えたのち、退職届を郵送しました。

イヤな人間が決して少なくはない職場でしたが、本当に「あ、この人は信頼してもいい人だ!」って思う上司が2名ほどいたので、その方々に、きっちりと挨拶できなかったことは、正直悔やまれますが、きっと今頃、相手方は私のことなんて忘れてしまっているだろうし、もう二度と会わない人にまでいい顔をして、自分を守ろうとするな愚か者、と叱咤して今に至ります。

 

【私が今回学んだこと】

社会は、心や体が辛いとき、「お休みしてもいいですか?」と、気軽に言える体制がまだまだ出来上がっていません。だけど、残業が多いから、育児がタイヘンだから、人間関係に悩んでいるから、仕事が思ったより好きじゃなかった、悲しいことがあって心が疲れているから、その他諸々……。

後悔でクヨクヨさえしなければ、別にどんな理由で休んだって、辞めたって、逃げたって、本来は良いはず。仕事なんて彼氏彼女と一緒です。自分が頑張ってもダメだと思ったら、乗り換えたり、別れてお休みしたり、全然オッケーだと思うのです。

私が大切にしてほしい、と思うことは3つ。

 

1、 会社は気軽に辞めてもオッケー

2、 会社を辞めることは、別に悪いことじゃない

3、 たった1度の人生、その人が、その人らしくいられることが1番大切 

 

何度も言います。どう努力したって合わない、って思うなら次に向かうもよし、しばらくお休みするもよし、何したって自由、その人だけの人生なのです。

とはいっても、辞めるのはやっぱり勇気がいるし、それをよしとしてくれる環境が、残念ながら、すべての人の周りにあるわけではありません。

もしもそばに、究極に追い詰められていて、心が叫んでる人がいたら、絶対に「仕事は辞めちゃダメ」だけは、気軽に言わないでください。その一言は、本当にその人を追い詰めるだけなので。

よければ、カウンセリングに行くことも、すすめてみてください。どこかおかしいから、ではなく、心の整理を手伝ってもらうため、ときちんと伝えて。

私も最初は行くのが怖かったけれど、実際、全然怖くありませんでした。何が嫌で、何が怖くて、何につまづいているのか。ゆっくりと一緒に心の整理をしてくれる、あの時の私には絶対必要だった、大切な時間でした。

 

最後に、私が、私らしくいられるために動いてくれる人たちに、心から感謝を。