むぎのゴハン

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「今まで苦労して育ててきた分、楽をさせて」と言う毒親、そして再婚の話

例えば、「自分がいなければ、アナタは生まれていないのに」とか「今まで苦労して育ててきたぶん、自分をラクさせて欲しい」とか、「腹を痛めて産んだのは自分なのだから、アナタのものをどうしようが私の勝手」とか、「○○ちゃん、くんは、私とずっと一緒」など……。

今、このブログを読んでくださっている方の中で、こういった言葉を、親にかけられたことがある方は、はたして、どれほどいらっしゃるものなのでしょうか。その中でも、それが「親として絶対に言ってはいけない言葉である」ということをご存知の方は、そのうちの何割なのでしょうか。

少なくとも私は、これらが、〈親として言ってはいけない言葉〉であることを、つい1年半ほど前まで知らなかったし、言われて当然の言葉だと思って過ごしてきました。

大人の庇護なしには生きてはいけない子どもにとって、親の言うことは守らなければならないもので、それが「本当に守るべきものか?」という疑念を抱いたとしても、中々、「自分の疑問、考えが正しい」と信じることが難しいですよね。疑問を抱いても、親の「従えないなら、家を出ていけ!」みたいな声にかき消されて諦めてしまったり、そもそも、疑問を抱くことすらなく過ごしてしまうパターンが多いのではないでしょうか。私の場合は、前者でした。

 

ここまで読んでドキリ、とした方、自分の親が〈毒親〉かもしれない、と思っている方、苦しんでいる方。それから、〈親の再婚〉を喜べない方、悩んでいる方。子どものことを考えて〈再婚〉することに悩んでいる方。

私は、毒親の娘として、親が再婚しようとした娘の立場として、自分のことをありのまま語っていきます。幸せのカタチは人それぞれなので、私がたどり着いた答えが、必ずしも、その人の幸せに繋がると断言はできませんが……。

それでも、昔の自分みたいに、どこかで悩んでいる、諦めているたったひとりの〈気付き〉に繋がったり、背中を押すきっかけ、または己を振り返るきっかけになれればいいな、と思います。私は、そのきっかけを得ることができて、変わろうとしたことで、とっても苦しんだこともあったけれど、とても楽になった部分も数え切れないほどありました。まず、現状の異常に気づいて欲しい。そして、苦しんでいる自分は正しいのだ、と認めてあげることができるようになれたなら幸いです。

 

 

▼過干渉タイプの毒親

私の母は上記のセリフをしきりに呟く、いわゆる〈過干渉タイプ〉の毒母でした。それは、元来の母の性質によるものも勿論大きいですが、きっと、過干渉を加速させてしまったのは、私の習い事のせいもあるだろうな、と考えています。

小児喘息を患っていた私は、「寒いところのスポーツがオススメ」というお医者さまのススメで、フィギュアスケートを習い始めました。最初は、本当にただの治療目的の習い事だったのですが、……いつごろからでしょうか。

「将来の夢は?」と誰かに尋ねられたら、「もちろん、オリンピック選手やんな?」と、間髪を容れず母や先生が答えるように。そうして、幼少期の私の中での将来の夢の答えは、〈そう答えなければ怒られるモノ〉として「オリンピック選手」になっていきました。いつの間にか、お遊びの習い事は「オリンピックを目指した習い事」にすり替わってしまったのです。

けれど、私自身、氷上に立ち続けた10年間の中で、オリンピックを目指したい、と思いながら滑ったことは、本音を言えば一度もありません。幼い頃は、オリンピックが何なのか理解していなかった、というのもありますが、オリンピックが世界中の人が注目する大変輝かしい舞台、ということを理解してからも、本当に不思議なくらい、オリンピックに興味が湧きませんでした。

それよりも、私の中で価値があったのは、スケート仲間と日々楽しく練習すること、母親や先生を喜ばせること。試合で1位を取ったり、周りが私を「すごい」と言ってくれるたび、母が褒めてくれて嬉しかったから、当時どんなきつくても練習をがんばれたのです。

冷静に考えれば、きっと誰から見ても、典型的な「子どもの習い事や成績が、親のステータス」状態だったと思います。事実、祖母は私をみて、しきりに「かわいそうに」言っていましたし、「子どもはあんたの操り人形じゃない」と度々忠告して、母とよく喧嘩していました。

 

▼娘に投資

ご存知の方も多いかとは思いますが、フィギュアスケートはたいへんお金のかかる競技です。ウチは母子家庭でしたから、勿論、お金に余裕なんてなく。それでも、10年間もスケートを習い続けることができたのは、母が寝る間も惜しんで働いてくれたから、なわけなのですが。それ自体は、大変ありがたいお話です。

ただ、日々、疲れた体にさらに鞭打つ母は、唯一の救いとして、私の将来に自分の未来を重ねていました。だって、オリンピック選手にでもなれば、将来安泰の可能性が大きくなるわけですし、〈オリンピック選手の母〉として、誇りも名誉も得られますから。自分の苦労が報われる……。そう考えるなら、私の将来に、自分の全てを投資しているような気になっても、確かにおかしくはなかったのでしょう。

けれど、これって、お子さんと適切な距離感を保つことができている親御さん方なら、首をかしげる話だと思います。私も、たくさんの人から「おかしいよ」って言われて、最近気づけました。昔から母は「将来はアナタにラクさせてもらわなきゃ」と唱え続けていたので、私の中には「私のわがままで、母に苦労させている。申し訳ない」という考えが、知らぬ間に刷り込まれていたんですよね。

喧嘩のときだって、「私もブランドのカバンを買ったりしたいのに! もっと努力してよ!」なんて怒られて。今なら「いや、知らんがな」って鼻くそほじくりながら言えるんですけど(笑)当時は、友達に「どうしたらいいんだろう」って泣きついていました。

けれど、これはどう考えても、私がどうにかしなければならないものではない、と今ならわかります。いろんな人に「自分がどれだけ苦しい思いをしたとしても、親は子に見返りを求めるものではない」と教えていただいたので。

カウンセラーの先生にも、ちらっと親のことを話したら、とんでもない、と言いたげな顔で首を振って、「(将来は楽させて欲しい、という言葉に対して)それは……親として一番言ってはいけない言葉ですよ」とおっしゃられていました。

これだけ周りに言われたので、理屈では「苦労をかけたことは、私が謝るべきではないこと」とは、わかっているんですけれども。……それでも、いまだ、私は母に、心の片隅でどこか申し訳なくなってしまうのです。幼少期からの刷り込み、ってとっても恐ろしいなって思います。

 

▼オンリーワン

練習量だけは人一倍多かったので、人並以上に技術は向上しました。それに伴って、周りの期待も、母の期待も、どんどんと重くなっていったのですが、それでも、私のオリンピックを夢見る熱は一向に高まりませんでした。私は、楽しく滑れたらそれでよかったのですが、「お遊びでやりたいなら、こんな金のかかるスポーツ、今すぐやめてしまえ!」と言われてしまうから、てっぺん目指してやるしかない。

母に申し訳なさを感じているせいもあってか、余計にその温度差が苦しくて、何度もスケートを辞めるか悩みました。けれど、その度、私は怖くなって踏みとどまってしまうのです。

小学校を早退してまで練習してきた自分からスケートを取ってしまったら、そこには一体何が残るんだろう……。今まで費やしてきた膨大な時間の代わりに、この先、何をあてがえばいいのだろう……と。

そんな自問自答を、幾度も幾度も繰り返しながら、日々の練習に励み続けました。……が、自分の中に「何が何でも勝ちたい」という闘志がないのに、周りの期待通りに走れるわけがありません。

私は、疲労骨折をきっかけに、どんどんライバルたちに追い抜かれていって、試合の成績も悪くなっていきました。いつしか、母親の口癖は「他の子はあんなに頑張ってるのに、あんたは全然がんばれていない」に。

私も思いました。「絶対、次は1位を取ってやる!」と心の火を燃やしながら練習している子と、楽しく滑れたらそれでいい自分……、差がついて当然だ。怪我なんてハンデがあったら、もっと追いつけなくて当然だ、と。

 

もし、自分に家族ができたら、と思いながら、振り返って思うのです。自分の子どもと、他人の子、母親が比べてはいけないな、って。そりゃ、大勢あっての個ですから、時にはその子の〈個性〉を見出すために、他人と比べることも必要なことだってあるでしょう。

けれど、子どもにとって親は、唯一、無条件で頼ることのできる場所なのです。子どもが一番辛い時に、「アナタは頑張ってるよ! アナタはここがすごいんだよ!」って信じてくれなかったら……。それどころか、まるごと否定されてしまったとき、子どもは、どこで安らげば良いのでしょうか? 明日も頑張るための燃料を、どこで補充すればいいのでしょうか? 親だけには、ナンバーワンでなく、オンリーワンを見ていて欲しいのに。

 

▼スケートが好きでなくなったとき

二度目の疲労骨折のとき、私のなかにあった僅かながらの燃料は、もはや燃え尽きて空っぽの状態でした。周りからは、ブランクを埋める努力をしろ、と追い立てられるし、怪我のせいで思うように楽しく滑ることもできない。何のために滑っているのか、頑張っているのか、本当に見失ってしまって……。

三度目の骨折は練習中にボッキリと。スケートに向き合う姿勢が悪くなっていく中で、その日は、特にウォーミングアップを怠った日だったので、骨折して当然でした。だとしても、三回も骨が折れるって才能がないんだろうな、って自嘲しながら、それでも、私はスケートをやめることができませんでした。

リハビリを頑張って、必死にブランクを埋めようと、努力しようとすることを努力して。心はもう嫌だ、って叫んでいるのに、「いや、まだまだ全然頑張れていない。ほら、あの子はまだトレーニングしてるもん」って自分を追い詰めて、本心を無視して。

 

そんなある日、ある選手の親御さんが、「私の子どもが『むぎのちゃんはすごい。三回も大怪我したのにさ、ひとりモクモクリハビリして、アップして、練習して。絶対私だったら、もうスケートやめてる。すごい頑張ってるよね』って言ってたよ」と、私の母に話したそうで、母は泣きながら私に謝ってきました。

「ごめんね、ずっと頑張ってないと思ってたけど、本当はすごく頑張ってるんだよね。えらいね」って。

今思えば、母も他人に認められたことで、娘の評価、というよりも、自分の評価はそんなに悪くない、とホッとしたんだろうな、と思うのですが、当時の私は、そんなにひねくれていなかったので、(笑)

母に認めてもらえて、頭を撫でてもらったら「そっか、私って頑張れてたんだ……。そうなんだ……」って、なんかもう全部が許されたような気がして。ずっと張りつめていた糸がはじめて緩んで、自分の中で消化しきれずモヤモヤしていたものが、サァア、と消えていって、すごく満たされたんですよね。

正直、争うことは向いてなかったな、と思います。バーゲン戦争に割ってはいることすら苦手なぐらい、人と争うのが苦手なので。それは、もう性分だから仕方ないと今では諦めています。……これは、一人っ子あるあるなのかもしれませんね。(笑)

でも、純粋に滑ることは好きでした。じゃないと、どんな理由があったとしても、十年も続けられなかったと思います。ただ、その時の私の中には、「滑ることが好きな気持ち」はもう1ミリも存在しなくて、スケートは単に「母親に褒めてもらうための手段」と化していたことに、そこでようやく気づけたのです。気づけた瞬間、じゃあ、今の私にもうスケートはいらないなって、はじめて素直に思えたから、もう今言うしかないんだと、その場で「スケートは、もうやめる」と母に伝えました。

 

▼子どもだってひとりの人間

私たち親子は、スタートから誤っていました。最初はただの習い事だったのに、いつしか、世界に羽ばたくために練習するようになって……。

母曰く、父と離婚したあと、喘息は治ったし金銭的にも厳しいからと、幼い私に「スケートに通うのは難しいかもしれない」とお話したそうです。でも、純真な子どもの言葉は、時にまこと残酷です。幼い私は、「私からパパだけじゃなくて、スケートも奪うの?」と泣いたそうで。

おそらく、滑るのが楽しかったから、という理由もあると思いますが、1番はお友達と離れたくなかったから、というものではないかな、と思います。とはいえ、私自身、そんなことを言った記憶は、これっぽっちもないのですが。笑

それでも、当時の母はこの言葉に大変ショックを受け、その際「自分がどんなに苦しくても、血反吐を吐いてでも、この子にスケートを続けさせてやるんだ」と誓ったそうです。

その呵責が、いつしか、母の絶対果たさなければならない使命となり、そして、自分の苦労を娘の将来で癒そうとせざるを得なくなって……。母も苦しいのに、私も苦しいという、お互いの気持ちが見えない、どうしようもない悪循環を生んでしまいました。

 

習い事が苦しい、親の圧力がすごい、と感じている人に、私から言えるのは、それは悪いことではないのですよ、ということ。親の顔色をうかがっても良い事はないです。子どもは親の道具ではなく、ただひとりの、オンリーワンの人間! 好き嫌いがあって当然で、好きでも、やりたくないときはやらなくてもいいし、好きになれなかったら、きっぱり「やめる」と言ってしまうのが、早々に「この子にはこの子の意思がある。ひとりの人間なんだ」と親に気づかせることにつながるのだと思います。そうすることが、結局はお互いのためになるのです。

それで、たくさん喧嘩することになっても、それは頑張って戦っている証。そこが踏ん張りどき。「あなたのためを思って」だとか、「どうしてわかってくれないの」とか、あらゆる言葉、手段を使って、親も必死で自分の子どもを〈理想の人形〉に仕立てるために、色々まくしたててくると思いますが、親にとっていいもの、社会にとっていいものは、その人にとって、必ずしもいいものであるとは限りません。人生のレールは自分自身が作っていくべきもので、親が引くものではないのです。子どもの人生はその子だけのものなのですよ。

 

 

▼ふっ、と現れたオジさんとシェアハウス感覚

ここからは、スケートをやめたあとの話。母も私も、これまでスケートに費やしてきた時間を自由に使えるようになりました。私がスケートを辞めたのは、中学生のとき。いまさら部活に入ってもな……、と思っていた私が、たどり着いたのは、元々好きだった読書と、アニメを見ること。自分の好きなように過ごせる時間は、大変有意義なものでした。友達と遊ぶことも増えて、あんまり食べたことのなかった、ファストフードも食べるようになって。授業にもまともに参加できるようになって、それはもう楽しい日々でしたね。(ファストフードに関しては、結局好きになれなかったんですけど)

一方、母は、母がこの先、ずっと一緒にいたいと思う男性とお付き合いし始めました。私は別に拒否しませんでした。だって、私のスケートに縛られることもなく、ようやく、好きなように生きることができてよかったなぁ。私も、母の注意が逸れて、文句言われず好きなこと自由にできるし。ウィンウィンだよね~とぼんやり思っていたので。笑

 

そうして、高校生のとき。母から「お付き合いしている人と、一緒に住みたいのだけど、……イヤ?」と尋ねられました。私は「別にいいよ」と答えました。その時、既にそのお付き合いしている方と、何度も一緒にご飯を食べに行ったりした中で、悪い人、だなんて一度も思わなかったので。

もちろん、私から見たら、どこにでもいそうなただのおっさんです。「めちゃくちゃ一緒に住みたい!」と思っていたかと言われたら、またそれは全然違うのですが、感覚的に言えば、シェアハウスに住む、みたいなもんかなぁ、と。

そりゃ、母だって女の人で、パートナーが欲しいのもわかるから。それが、今まで散々苦労させてきた、母の幸せになるのなら、私は喜んで歓迎するべきなのだ。当時の私は、そう考えていたのです。

いざ、一緒に住みはじめると、最初は楽しかったです。初めて、自分の部屋ができて「うっひょーー!」って感じでしたし、三人で一緒にゲームをしたり、横暴な母の意見に、一緒に「それは違うよ」と一石投じてくれる人が出来たので。

それでも、私の感覚はあくまで、「遠い親戚のおじさんと仲良しライフを過ごしている」にとどまるもので、「父親と過ごしている」というものでは、けっしてありませんでした。そこに、親たちと齟齬を感じたのは、私が、はじめて男性とお付き合いしたとき。

 

正直、親からみれば、あまりいい男性とは思えない人で、今、私が振り返っても、「とんでもない人とお付き合いしたもんだなぁ。うんうん、人生経験ってやつだねぇ」って感じの人だったのですが、お付き合いが親に露見したとき、言われたんですよ。私から見たら、最近知り合った、遠い親戚のおじさんに「そんな子だと思ってなかった。幻滅した」と。

んん? と私は我が耳を疑いました。いやだって、幻滅したって、逆にどんな理想を思い描いていたの? っていう。たった1年、同じ屋根の下で過ごしただけなのに、この人、私の何を見て、何を知ったんだろう。勝手にどんな幻想を抱いて、幻滅したんだろうと。

まるで、窓辺で読書する清廉な女の子であることを求められたような。アイドルは清純なもの、ふしだらなスキャンダルなんて許せない! とか、うちの子に限って、そんなことありえません! みたいなことを言われたような。穢らわしい、って言われたような気分というか。控えめにいって、大変気持ち悪かったです。

そりゃあ、年頃の娘ですから、失敗もしますよ? 父親に「あんな奴、認めん!」って思われても仕方がない人と、お付き合いをした自覚は確かにありました。けどね、でもね、ただの仲良しのおじさんに「幻滅した」なんて言われるほどのことをしたとは、到底思えなくて。子どもは火傷してなんぼでしょ、と。それは、私の中で、今でも許せない一言です。

 

それからというもの、私は、ただの仲良しおじさんを避けるようになりました。露骨にではなく、一緒にゲームするのを「パソコンしたいから」と断ったり、旅行も、「二人で楽しんでおいで。私はマンガ読みたいから」って断ったり。それは私の中で、「これ以上、父親と錯覚しないでほしい」「私は、父親を求めていない」という、家の中の関係を壊さないように気を使った、最小音量による必死の訴えでした。

母は、それを察しなければいけない立場だったと、私の叔母は語っていました。私も、母だけは私だけの味方でいて欲しかった。けれど、実際の母が私にかけ続けた言葉は、「なんでそんなに嫌うの?」「旅行ぐらいちゃんとついてきなさい」「お金あげるから、父の日、誕生日になにか買ってきてあげてよ」「頭ぐらい、撫でさせてあげなさい」「どうして、私を困らせるの?」

「じゃあ、私もそっくりそのまま返すけど、どうして、私を困らせるの?」が、当時の私の心境でした。言いはしませんでしたが。

 

▼年頃の娘をなんだとお思いで?

全部、全部、吐いてしまえば、体臭がきつい方だったので、洗濯物を一緒にするのも本当は嫌でした。なるほど、これが巷で噂の「お父さんの服と一緒に洗濯しないで!」ってやつか! 普通の女子高校生の気持ち分かっちゃった! と当時感動を覚えたものです。笑

向こうもそれを気づかって、最初はコインランドリーに洗濯しにいったりしてくれていたんですけれども、母が「もう一緒でいいやんな?」と言うから、「うん、そりゃお金ももったいないし、めんどうやもんね」としか言えませんでしたよ。

お風呂だって、一番に入りたかったけど、「早く寝ないとダメだから、アンタは後にしなさい」って怒られたり。そりゃそうだけど、たまには綺麗なお湯に入りたいよ。ちょっとは年頃の娘の気持ち、考えて!みたいな。

頭撫でられるのは、一番大嫌いでしたね。それだけは耐えられなくて「いやだ、頭撫でられるのキライ!」といって、必死に逃げ回るくらい。父親と娘ですら、クリアするのが難しいミッションを、なんでこのオッサンは平気でできるんだ。女子高校生の頭撫でるおっさんの図、ちゃんと想像できてる? 気持ち悪がられると、なんで思わないわけ? どんだけ無神経なの? と当時、憤慨していました。(全国のおじさん、ごめんなさい)

いや、だから何度も言うけれども、考えて欲しいのです。私たちは、小さい頃から一緒に過ごしてきた父と娘ではなく! 愛嬌振りまく人形とその持ち主でもなく! 突如現れたただのおっさんと、お多感な少女! そして私は、〈父親〉なんて存在、ちっとも求めていなかったのです。

 

ぶっちゃけます。離婚も再婚も、子どもには何の関係もない話で、親の都合で勝手に行うものなのです。なおかつ、子どもは親に従うしかない立場なのです。自分の気持ちがいいように、好き勝手に家族の関係を動かす親は、毎日タンスの角に小指をぶつければいいのに、と思っています。

でも、それは、「離婚するな」「再婚するな」と言っているわけではありません。子どもがいるからって、己の気持ちに嘘をつけ、なんて絶対言いません。だって、親も人間ですから、誰かを嫌って、誰かを好いて、誰かと一緒にいたい、と思うのは、当然の話だと思うのです。

でも、それならそれで、否が応でもふりまわされる子どものことを一番に考えてやらなけれなければならなかったのでは、と私は経験上考えます。

単純に、離婚したらしたで、そのぶんの愛情をいっぱい注いでやればいいだけの話ですし、再婚したら、その時は、子どもと、義理の親となるその人の潤滑油として動いてやればいいだけの話。もちろん、それは、再婚する人のため、ではなく、振り回される方の子どもの気持ちに寄り添う形で。

恋は盲目と言いますが、子どもの素直な気持ちを聞き出せないほど、盲目にはなってはいけないと思います。子どもは、親に「これしてもいい?」って聞かれると、「いいよ」としか、だいたい答えられません。だって、お母さん、お父さんのことが大好きなのですから。大好きな人が困っていたら、いいよって言ってしまうに決まってるじゃないですか。

 

私の母の場合は、義理の父の潤滑油として動いていました。義理の父には言いにくいことは、私に「調節してよ」、とお願いすることで、家をまーるくしようとしていたのです。そうです。だから正確には、ウチの潤滑油として動いてたのは〈私〉ですね。

自分の気持ちを全部押し隠して、母の希望にできるだけ応え、義理の父が求める娘を出来る範囲で演じ、母と父と子……、血が繋がっていなくたってこんなに仲良しで、誰からも見ても〈幸せな家族〉に見えるように。その大人たちの要求に、5年ほど耐えていたことになります。

テンパるのはいつも母で、冷静に対処するのが私。感情に任せて、怒り狂うのはいつも母の方で、比較的に落ち着いて話を戻すのも私。そう、母と私は、知らないあいだに、立場が逆転していたのです。

 

▼いや、そもそも家族と認めてませんから

でも、やっぱり私も、元の性質的には我がとても強いですから、やがて、パーンっと爆発しちゃいました。詳細書くと、これまた長くなってしまうので、要約すると、

 

「義理の父の弟の結婚式に出ろ」と言われた私。「いやいや、私めちゃアウェイやん。(というか、義理の父の娘じゃないし、娘として出たくないし)」と拒否したら、「家族に協力できんやつは、家から出ていけ!」と母親が般若のごとく怒り狂った。

いやいや、今回ばかりは私も従えないんだ! と、叔母、祖母に助けてもらいながら胸中を伝えるが、私が式に出たがらない理由がちっともわからないらしい母の怒りは、とどまることを知らず、まさに怒髪天を衝く勢い、もはや話の通じない超サイヤ人に。

これは、私が義理の父の事を嫌い、ということを伝えなきゃ収拾がつかん、ということで、叔母がその旨を母に伝えてくれたのですが、母は「娘が義理の父を嫌っていること」「娘に嫌な思いをさせていたこと」「自分も本当の父が欲しかったから、てっきり娘もそうなのだと思い込んでいたこと」その全てにショックを受けたらしく、音沙汰もなくどこかに消えてしまって警察沙汰になった……、という人様に大、大、大迷惑をかけまくったりの大火事に。

 

結果、こりゃもう一緒に住めないな、と判断した私は、祖母の好意に甘えて、空き家になっていた祖父母の持ち家にお引越ししたものの、母親に何十件と着信入れられるは、ピンポンめっちゃ押されるは、義理の父親死んじゃうわ、となんやかんやとあって、今に至ります。

そのなんやかんやは、興味があればこちらの記事を読んで頂ければ嬉しいです。 

mugi-mugino.hatenablog.com

mugi-mugino.hatenablog.com

 

▼ありきたりな母と子

私は、とりあえず、どんな話でもきちんと最後まで聞いてくれて、否定せず受け止めてくれる……世界中の全てが敵になったとしても、絶対、母親だけは味方でいてくれるんだ、って信じられる絆が欲しかったし、母には、無条件に甘えられる場所であって欲しかった。時には弱音だって吐くかもしれないけど、日頃は人生の大先輩として頼もしくあって欲しかった。だったら、母のたまの弱音も大切に受け止めることができたのに。

もっとわがままをいうなら、母親と一緒にご飯作ったり、遊びに行ったり、服の見せびらかし合いをしたり。彼氏の愚痴を言ったり、相談したり、普通の親子として過ごしたかった。

実は、お仕事を辞めたことも、未だ母には伝えられていません。しきりに、「大手だから、絶対やめちゃダメ」しか言わない母のことだから、「もうやめた」なんて言った日には、発狂して手がつけられなくなるよね、と祖母、叔母と相談した結果です。

本当は1番に相談したり、話を聞いて欲しいのに、それが叶わないというのは、なんとも虚しくなる話なんですが。だから、私はCMなんかで流れるような、いわゆるあったかい普通の家庭に憧れるんだろうな、って最近特に思います。ないものねだりですね。

 

でも、そんな母でも、私の母であることに変わりなく、〈私たちが親子である〉というのは、何があっても覆らない事実です。

叔母は「親子っていうのは残酷で、どんなに酷い親だったとしても、交換することはできないし、選べないのよな。とっても理不尽で、逃げようのないむぎのちゃんが可哀そう、代わってあげたいくらい。なんなら、今すぐ連れて帰りたい」と涙ぐみながら言ってくれました。けれど、こうも続けました。

「でも、どれだけ可哀そうでも、代わってはあげられない、逃げても、いつかぶち当たらなければならないのが親子なのよな。どうやって、あの母親と付き合っていくか、決めるのはアナタにしかできないことだし、あるいは、突き放すのかを決められるのもアナタだけ。どっちを選んでも苦しいと思う。理不尽だけど、可哀そうだけど、でも、どうしていくかは、全部アナタが決めなければならないことなんよ」と。

 

大恩人である叔母のアドバイスは総じて、いつでも正論で、やや手厳しくてダメージを食らうことも多々あるのですが、いつだって、未来の私のためになっています。

母から逃げられないことに、うんざりすることは、やはり少なくはありません。けれど、いやだ、いやだ、って言ったってどうしようもないし、やり方は間違っていても母が私を愛してくれていることはわかる、別に嫌いなわけでもない。どちらかというと、困ってはいるけど好きだからまた困る、といった感じなのです。だから、私が選んだのは、今、1番自分が楽な距離感で接することができるように、日々過ごすこと。

突き離しもしないけど、週1で電話したり、しつこくかかってくる電話に出なかったり、出来ることはちゃんと自分でやって、って言ったり。今、私はそういう当たり前のことからはじめています。

 

▼おわりに

毒親といっても、私のような過干渉タイプ、それから、暴力を振るうタイプ(うちの母も昔は髪の毛引っ張ったりと酷かったですが、今は落ち着いています)、お金をせびるタイプと、色々といらっしゃると思いますが、もう無理なんだ、とか、でも自分が悪いだけかも、 なんて思ったら、信頼できる、頼れる大人を探して、一度相談してみてください。大人になればなるほど、毒親の束縛から離れるのは難しくなるそうなので、早いことにこしたことはないと思います。 

私は「今より悪い状況になるくらいなら」「親と喧嘩するぐらいなら」、なんて、ありもしない未来を怖がって、毎日嫌なことを耐えて過ごしてきました。でも、じっとしているだけじゃ、じわじわ現状が悪くなるだけで、良い方向にも、悪い方向にも前進しません。現状が変わってしまうのが怖くても、一歩踏み出して欲しいなと思います。

「自分はさ、『誰かが傷つくぐらいなら』って言って自分の痛みをずっと我慢しているけど、そうやって傷つき続けるのを見て、傷つく人がいることを忘れたらダメ」なんて言われたことがあります。私はもう大ショック。「わ、わたしは、自分が一番傷つけたくない人たちを傷つけていたのか……」っていう。じゃあ、私のことを好きって言ってくれる人たちのために、現状を変えることを頑張らなくては、と踏ん張れました。

 

親のことについても、離婚や再婚も……。「アナタが幸せになる道はコレだよ」なんて教えてくれるものはありませんから、選び取るのも、現状を変えようとすることも難しいです。なにか原動力がなければ行動できないでしょう。

でも、自分の人生は、親のためのものではなく、誰かの為のものでもなく、自分だけのものだから、誰かに自分の行く末を委ねてもいけない。誰かの犠牲になってもいけない。自分自身が進んでいく道を、自分で選びとって生きていかなければいけないし、自分の選んだ選択に、責任を持たなければいけません。母親の意志のままに過ごしてきてしまった私は、そのことに気づくのに20年もかかったけれど、それでも、気付けて良かったんだ、と心から思っています。

 

自分が傷つくことで、苦しい思いをする家族や親友、恋人がいることを忘れず、誰もが自分らしく輝けるようになればいいな。もちろん、自分だって自分らしく輝くんだぞ! そんな思いで、自分の経験を綴りました。大変長文になりましたが、最後までご覧いただきありがとうございました。

 

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