むぎのゴハン

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人が死んで、骨になるまでを眺めたお話

義理の父が亡くなってから、ちょうど1年が過ぎました。

基本的にポジティブで、怖いといえば、エイリアンとか、虫とか、ジェットコースターぐらいだった私が、それをきっかけに、たくさん〈怖いもの〉が増えてしまいました。前の自分よりも、随分と弱点が多くなって、弱っちくなってしまったように思えます。

お話しさせてもらったカウンセラーの先生によると、トラウマは逃げて治るものではなく、立ち向かい続けて、はじめて克服できるものだそうです。

なんとなくわかります。

逃げていたって、いつまでも苦手なものは、苦手なままだったり、むしろ、積み重なった想像が、対象をよりいっそう〈嫌いなもの〉に進化させてしまったり。でも、そんなものでも、がたがた震えならでも戦ったら、そのうち慣れたり、一周半まわって好きになったりするときありますよね。例えば、食べ物とか、高いところとか、運動とか……。

私の〈怖い〉は、好きになることも、平気になることも、ずっと、ずっと果てしなく遠いところにあるように思えて、仕方ないものばかりなのです。

でも、せめて、「ほーん、別に平気だし~?」とか言って、実は震えているのに、鼻くそほじくれるぐらいにはなりたいな、と思っています。私は、ほんのちょっとだけでも、今の自分より強くなりたいのです。

 

これから、私は、私の心の整理をするため、恐怖に打ち勝つため、どんっと前を向くために……。義理の父の〈死〉に関するその全てを、事細やかに振り返っていきます。私が語るのは、「人が死んでから、骨になるまでのお話

それは私の体験談で、いうなれば、ずっと溜め込んでいた〈排泄物〉ともいえます。オブラートに包むこともなく、ありのままを吐き出していくので、そういった話が苦手な方は、この先ご遠慮ください。

 

 

 

 

▼義理の父と実の母、そして私。

私たち三人は6年半ほど、同じ屋根の下で暮らしましたが、義理の父が死ぬ1ヶ月前、実は、私は家出をしていました。

ある喧嘩をキッカケに、母親に「家を出ていけ」と言われてしまったから……。というのもあるし、私自身も、もう、家族が元の関係に戻るのは難しい。母親と離れなければ、この先、もっと母親に依存されることになる、と考えたので、祖父母がむかし暮らしていた持ち家に、一時避難していたのでした。

そこら辺、詳しく語ってしまうと別のお話になってしまうので、〈私の親〉〈毒親について〉〈再婚について〉主軸に語った記事があるので、ちょっと読んでみたい、と思われた方は、そちらに一度目を通していただけると嬉しいです。自分の親が毒親かもしれないと思う人、まだ気付けていないかもしれない人、親の再婚を喜べない人、そんな人の少しの支えになれたらと思います。

mugi-mugino.hatenablog.com

 

話を戻します。

少しややこしいのですが、元々、三人で暮らしていた家と、私が避難した祖父母の家は、同じマンションの中にあって、離れて暮らしているけど、何メートル先かには、大喧嘩中の親がいる。まるで、仲の悪い隣人となるべく鉢合わせしないように、みたいな気まずい距離感の中で、1ヶ月過ごしました。

ごみ捨ても、帰宅時間も気にしなきゃいけないなんて、もうやってられん! お金貯まったら、即引っ越してやる! 鼻息を荒くして、将来設計を考えまくっていましたね。笑

でも、そんなある日、夜中にお風呂に入っていると、救急車のサイレンがドンドン近づいてきて、自分が住むマンションの前に、救急車が止まったのがわかりました。気になって、耳を澄ましていると、救急隊員の方が、義理の父親の苗字、何階、何号室だ、と呼ぶ声が。

あ、なんか絶対、ウチでよくないことが起きている。

ドキリ、とした私は、慌ててお風呂から上がって、急いで服を着て、濡れた髪のまま元の家に向かいました。

一番に思ったことは、言わずもがな「母親に何かあったんじゃないか」でした。

そのときは喧嘩していたし、自分の親の毒母っぷりに心底うんざりしていたし。本当に〈家族〉という鎖が憎くて仕方がない、と思ってた時期だったので、あとから思えば複雑な心境だったのですが、「母親に何かあったのでは?」と思うと、心臓が握られているようで、生きた心地がしませんでした。

 

いざ、家に入ると、救急隊員の方が慌ただしく動き回っていました。義理父は既に運び出されたあとらしく、母親が「息が止まってる、お願い、助けて、助けて」とひたすら叫んで震えているような状態。母親の姿を確認した私は「ああ、自分の母親が何かあったわけではなかったんだ」とひとまずホッとしました。

その次に、義理の父が倒れたんだな。息が止まっている、ということは、スピードが求められているんだな、に思考が至ったので、まるで使い物にならない母親に変わって、私が、救急隊員の質問に答えながら、錯乱している母親が救急車の助手席に、私が後ろに同乗する形で、病院に向かいました。

 正直、その時点では、「無呼吸症候群が悪化したかなんかだろう、どうせ助かるよね」と頓珍漢なことを考えていました。母が、「寝てたのに、『ウッ……』って呻いたあと、ベッドから落ちた」と言っているのを聞いていた、っていうのもありましたし、そのときは、息が止まる病気が思いつかなかったので。でも、病院に向かう道中、救急隊員の方々は、想像以上に緊迫した様子でした。

心電図を見ている方が、

「息がもどるかもしれんのに、止まれって言ったら、すぐ止まってくれ! 大丈夫や!落ち着け!」と、運転している人を追い詰めないように気を使っていながらも、切羽詰った叫び声を上げていたり、心臓マッサージしてくれている人を、「辛いな、でも、もう少しや、もう少しや」と、必死に励ましたり。

心臓を押されるたびに、反動で跳ねあがる義理の父の力ない足……。

それを眺めながら、「ちょっと待ってよ。こんなに救急隊員の方たちが、息を戻そうと尽力しているのに、何かの拍子に呼吸ができなくなったぐらいだったら、そろそろ、呼吸が戻ってもいいんじゃないの。ちょっと、息が止まるのが長すぎやしない?」と、私の心のどこかに、ヒヤッとしたものが走ったのは、今でも忘れられない恐ろしい感覚です。

 

病院に着いて、書類に必要事項を記入したあとは、喧嘩していること、心底うんざりしていること、すべてポイッと外に投げて、「あんな食生活してるから、こんな目にあうんだって、開口一番に言ってビンタしてやればいい」とか「大丈夫、今、先生たちが一生懸命助けようとしてくれているから」とか「義理の父くんは、自分たちを置いてったりしないよ、大丈夫だよ」なんて無責任な言葉をかけたりして、泣きじゃくる母親を必死になだめていました。

だって、まさか本当に、人がそんなにもあっけなくいなくなってしまうなんて、信じられなくて、信じたくなくて。幸いにも、すぐに救急隊員が来てくれたのだから、死ぬはずがないと思いこもうと必死で……。

しばらくすると、先生に呼ばれたので慌てて別室へ。先生は「こういう状況なんです」とレントゲン写真を指さし説明してくれました。私も混乱していたので、よくは覚えていないのですが、「心臓が小さくなって、肺が黒くなっているのがわかりますか? これは破れた血管から、肺に血が流れこんだものなんですが……」という説明だったと思います。

そうして、先生は、こちらを気遣うように、ゆっくりと言葉を選びながら、「色々、手を尽くしたけれど、もう搬送された時点で、手の施しようのない状態でした」という旨を伝えてくださりました。

その瞬間、母が気の狂ったように首を振って、「いや、いや、いや! これからどうやって生きていけばいいの!」と叫びながら、私の腕にしがみついてきたことは忘れられません。私の心に、まずドカンと襲ったのは、「あれ、これって、夢じゃないの?」ということ。亡くなった、死んだ、死んだってなんだろう? って思っちゃって。

錯乱する母、その背を撫でてやるしか出来ない私をみて、先生が、お会いになられますか? と訊ねてくださいました。なおも、いやだ、いやだ、と呟きながらも、義理の父を求める母を抱え、私たちはゆっくりと義理の父のもとへ向かいました。

 

▼死んだ顔が 寝顔のよう

誰が言いはじめたのでしょうね。死んだ顔が寝顔のよう……とは、本当によく言ったもので、私にも、義理の父はただ静かに眠っているだけのように見えました。死んだなんて、まるで嘘のようで、「本当にこれで死んでいるんだ」「本当に死んでいるのかな」なんて、やっぱり何度も、何度も、心の中で問いただして。母が、「嘘やんな、嘘やんな、寝てるだけやんな……」と、話しかけながら、義理の父の頬を愛おしそうに撫でるのを眺めているのを、ただ、ぼうっと眺めるしかありませんでした。

ただ、寝ているだけ。そうとしか思えない私たちに、先生は、現実をみろ、と言わんばかりに、よくドラマで聞くあのセリフを口にされました。「午前何時何分、お亡くなりになられました」と。

その言葉を聞いた瞬間、母は何かに押し潰されるように泣き崩れました。「死んでない、死んでない!」「自分だけは置いていかないって行ったのに!」

横で泣き叫ぶ母、ご家族を今から綺麗にしますからね、と動く看護師さんたち。なんだか、全部が夢のようで、私は、あのセリフって本当に言うんだなぁ。医者に死んだ、って言われて、遺体を囲んで、家族が悲しむシーンって、演出じゃなかったんだなぁ……。

なんて、呑気な考えが頭をよぎったのですが、よくあるドラマの映像をさっと脳裏に浮かべた途端、目の前の現実を、客観的にとらえてしまったんだと思います。「ああ、人が死んだ、って、ああいうドラマみたいなことなんだ……」って。そうすると、目の前の遺体がとんでもないもののように思えて、恐ろしくなってしまって。

これが、本当の家族だったりとか、親友や恋人だったりとか、自分にとってかけがえのない人の死ならば、母のように「悲しい」という感情の濁流に揉まれることになったんでしょうけれど、私にとって義理の父は「母にとってかけがえのない人」だったので、「人があっけなく死んだことが恐ろしい」という、波に私は襲われていました。

 

そのあとは、「信じない、信じない」とひたすらベンチの隅で泣きじゃくる母に、「ちょっと待っててね、連絡しなきゃいけないところに、連絡してくるから」と伝えて、その場をいったん離れました。

義理の父のお母様に、息子さんが病院に運ばれたから、という来院のお願い。義理の父の職場に、しばらく出勤が厳しそうだ、ということ。でも、他にどうすればいいのかわからなくて、ただ、へたに「亡くなった」と伝えて、無駄に混乱を招くのは良くない。そこは配慮するべきだ、しか、もう頭になかったのです。

だから、最後に、自分の親族の中で、一番頼りになる叔母に「義理の父が死んだ。でも、自分だけでは、これ以上どう動いたらいいのかわからない。助けて欲しい」と連絡を入れました。

それから、気持ちを一旦落ち着かせて母の元に戻ったのですが、やはり、母はこの世の終わりみたいにうなだれていました。そうして、やがて、憂いを含んだ笑みを浮かべて、私に言ったのです。「もう、死にたい。耐えられへん……」と。

「あ、この人、実の娘にそんなこと吐いちゃうんだ……」と、もうそのとき、私は唖然としてしまって。これから、共に歩んでいこう。共に土に骨を埋めよう。そう考えていた人が、思う以上に早く逝ってしまったのです。そう思う気持ちもわかるし、そう言いたくなるのも十二分に理解できる。できるけど、例え、それが今だからこそ、ぽろりとこぼしてしまった弱音だったとしても、こんなときでさえ、娘に甘えようとする母親がどうしても許せなくて。

「私には、アナタしか親がいないのに、唯一の娘で母なのに! なのに、私を残して、死んだ人間追うんかっ! 今、自分がそれだけ悲しんでるのを、娘にも味あわせる気なんやなっ!?」と、母の肩を揺らしながら怒鳴ってしまいました。

母は、「ごめん、ごめん」と謝りながら、それからも、ひたすら泣きじゃくっていましたが、正直、もう今はそばに居たくはない、と思ってしまったので、かと言って、本気で自殺されても困るので、向こうの親族の方が来られてから、近くの公園に逃げました。

 

三月です。まだ日が昇りきらぬ朝方です。震える息を吐くと、白くなった息がふわり空を漂って、音も無く消えていって、本当に静かでした。それでも、周囲のお宅から生活音が響きはじめると、なんだか、日常の中にひとり取り残されてしまった気がして。体の芯から凍てつくぐらい、とても寒かった。それすら、どうでもよく思えるぐらい、心がいっぱいなのか、空っぽなのかもわかりませんでした。

当時、身近にいて唯一頼れる人だった恋人、そして、今も、引き続きお付き合いしてくれているおおむぎ君に電話して、「人がさ、死んだのにさ、なんか、悲しいとか感じられない。……これから、あの母親をどうやって養っていけばいいのかな」と、ぽつり弱音を吐きました。

 

▼そこからは、怒涛の毎日

本当に、もうあっという間に、物事が進んで行きました。

「義理の父は死んでないんだ!」と妄言を繰り返す母親に笑うしかなかったり。「自分が一番辛い時に、傍にいてくれないなんて、とんだ娘を育ててしまった!」だのなんだの文句を言われたり。祖父母が来て、叔母が来て、親族が集まって、あっという間にお通夜が終わって。

お通夜の時、義理の父の死に顔を改めて見ました。その顔は、死化粧が施されているはずなのに、異様に顔色が悪くて、頬の肉が垂れ下がっていて。そこにいる人は、もう、私の知らない人のようでした。

死んだその瞬間は、たしかに寝ているみたいだったのに……。たった1日、時間が経つだけで、一気に死人の顔に変わってしまうんだなあ……。そう思うと、身がすくむほど恐ろしくてどうしようもなくなりました。

多分、そのときの私は、やっぱり、人が死んだことを受け止めきれていなかったから、なおいっそう「本当に亡くなった」証明たる死に顔を、まっすぐ見つめることができなかったのだと思います。義理父の顔は、そのあともしばらく見ることができず、お葬式の時の、最後のお別れの時にしか直視することができませんでした。

お葬式は、まともに眠ることもできていなかったせいか、心はいっぱいいっぱいなのに、お坊さんのお経が子守唄でしかなかったことに、どんなときでも、校長の話とお経は眠くなるもんなんだな、なんてまたもや呑気なことを考えていたぐらいなんですけど、火葬のときは流石にそうはいきませんでした。

これから、焼いていきますよ。最後のお別れをしましょう、のとき、私を含め、誰もがこれまで以上に、涙を流していました。

その人の心臓はもう動いていないのに、喋らないのに、笑わないのに、もうそこには、いないとわかっているのに……。動かぬ肉体が燃えてなくなることが、こんなにも惜しく、苦しく、恐ろしいものなのか。

死ぬって、こういう事なんだ。ああ、本当に死んだんだ。

肉体が焼け、骨を見て、私はここで、義理の父が死んだことをようやく実感して、認めることができたように思います。火葬はそういう、肉体があるだけで「本当に死んだのかな?」と思わせる、私たちの信じたくない心、〈依存心〉も一緒に燃やして、本当の「お別れ」をさせてくれるんだな、とぼんやり思いました。

 

余談ですが、火葬を待つ間、食事が出てきました。今、義理の父はどれぐらい焼けたのだろうか、とか考えながら、平気でもぐもぐご飯を食べることができている自分には驚きましたね。(肉が出てきていたら、無理だったかもしれませんが)他の人も、閑談しながら食事を続けているのを見て、(震災のときも思ったけど、人間って器用だよな……)と悶々と考えたり。

火葬中にご飯を食べるという行為は「どれだけ悲しくても、あなたたちは他の生を食らって生きねばならないのです」と、言われている気がしました。

 

▼人が唐突に死ぬこと

人が突然死ぬことに、大きなダメージは受けましたが、義理の父の死が、とても悲しいものとは今でも思えません。それは、私自身が義理の父を必要としていなかった、というのもあるし、最後まで、私が義理の父が好きになれなかったから、というのが大きいでしょう。

でも、私のややこしいところは、「はあ~! 死んでくれて清々した!」とは思えないところ。だって、たしかに嫌なことのほうが圧倒的に多い生活でしたが、全部が嫌ばっかりだったかと言われたらそうでもないのです。

実の子でない私を、6年半も養ってくれた恩もあります。コーヒーを豆から淹れたら美味しいことを教えてくれたのも義理の父でしたし、何度か作ってくれたレタスチャーハンは美味しかったです。旅行だって、誰もが行けるわけでもないもので、一人増えるだけでかかる旅費もドンと増えるのに連れて行ってもらえて。結果として貴重な体験をさせてもらったなあ、と思うからです。

(勿論、行きたくない、と言った私の気持ちを無視した、という話は置いておいて)

私は、母のパートナーとしては、義理の父を認めていました。その優しさは、母のためになるのか? と思うことも多々ありましたが、それでも、義理父が、本当に母のことを愛していたのは、日々の生活の中で十分に伝わってきていたから、ああ、母がこの先添い遂げたいと思う人が見つかって良かった……、と心から思っていたのは事実なのです。

だからこそ、なんで母を残して死んでいったんだ、という、抱いてもどうしようもない恨みもあれば、喧嘩別れして、何も言葉を交わさずお別れしてしまったことに、悔いも残ります。会社を辞めた理由、という別記事でも語りましたが、義理の父が死んだ理由は、生活習慣のだらしなさであることは明白なのに、私はそれを、私が喧嘩を引き起こしたことで、心臓に負担がかかって死んでしまったんじゃないか、という考えから抜け出せなくなってしまったり。

 

さらに私は、しばらく、救急車の音が怖くなってしまいました。音が鳴ると、もう目の前に、力なく跳ねあがる足とか、混沌とした救急車の中の映像が蘇るんですよね。これが、世にいうフラッシュバックだ、ということに気付くのにも時間がかかりました。

他にも、顔色の悪い人に、死人の顔を重ねてしまい、怖くなってしまったり。部長の奥さんが亡くなった、といった訃報をきいたりすると、人が死ぬ、という事実に耐えられなくなったり、急に自分が死ぬのが怖くなって、震えが止まらなくなったり、と、それはもう、笑えるぐらい、グラグラ不安定で仕方なくって。

死後の世界の存在を信じていなかったからか、私は、義理の父が死ぬ前から「死ぬのが怖い」「死んだら思考することができなくなる、自分が消える、怖い」という恐怖を、多分、他の人より考えがちでした。だとしても、死の影が、時折近く感じるぐらいで、日常生活に支障をきたすものではなかったのですが……。

なんの前触れもなく逝ってしまった義理の父の、死んで骨になるまでを見届けてしまって、義理父の死に嘆く、人たちを見つめてしまって……。

それを機に私は、死の影がいつも自分の隣にいるような気がして、仕方なくなってしまったのです。いつああやって死ぬかわからない、いつ呼吸が止まったっておかしくない。そう思うと気が狂いそうで。

 

カウンセラーの先生に、素直に相談しました。

誰だって、死ぬのが怖いのは当然なんですけど、人の死を間近で眺めてしまってから、死ぬのが怖くて仕方ないんです。保険金も、死んだ本人の意思通りにならなかったのを見ていると、幽霊も、死後の世界も、やっぱりないじゃないか、と思ってしまって。死んだあと、何にもなくなる、って考えると、恐ろしくて耐えられないんです。

先生はこう返してくれました。

死後の世界なんて、本当にあるのか、ないのか……。それは誰にもわからないこと。だって、誰かが「ある」って言ったとしても、「ない」って言ったとしても、証明しようがない事柄で、真実を確かめようがないのだから。そういう、答えがないモノに振り回される、思い悩むというのは、一番精神的に良くないです。そういうのは、あるかないかを曖昧なままにしておくのがいいですよ。

 

そうか、曖昧でいいのか。白黒はっきりしなくてもいいんだ。そのときは、ホッと落ち着いたのですが、それでも、救急車の音や、突然恐ろしくなってしまうのは変わりなくて。そういう時は、おおむぎ君に何度も言われました。

「たしかに、自分たちは事故とか、突然の病で明日死ぬかもしれないし、一週間後に死ぬのかもしれない。けど、80歳まで生きるかもしれないし、110歳まで生きるかもしれない。どうなるかなんて、誰にもわからんのやから、いつ来るかわからない「死」を恐れて、毎日びくびくするよりも、いつ死んでも後悔はない、って言えるように、毎日思いっきり生きたらいいやん」

そのとおり、そのとおりだ。わかってるんだ、わかってないけど、わかってるんだよ。怖くなるたびに、支えてもらって、涙をぽろぽろ流しながら、うんうん、頷いて。この一年、その作業の繰り返しだったように思います。

 

そのおかげで、最近は、ようやく落ち着いてはきました。救急車の音をきいても、びっくりするだけ。聞き流すことこそは難しいけれど、あの時の光景がフラッシュバックすることは、そんなに多くありません。

けど、自分で自分の傷口に塩を塗りこむ回数が減ったというだけで、まだまだ完全に吹っ切れたわけでもなく。これまで逃げていたことに、プルプル震える仁王立ちで立ち向かったわけですから、ここまで書くのにも、恐怖で何度もくじけそうになったし、涙もボロボロ流れてしまいました。

おおむぎ君に、ヘルプヘルプ! と両手上げて、これが怖い、あれが怖い、と泣きながら何度お話したことか。でも、泣きながらでも、今こうやって、思い返すことができるようになっただけで、随分吹っ切れたのでは。しかもしかも、なんと、推敲を重ねているうちに、とうとう涙も出なくなりました。これはもう、やったね、自分! と自分で褒めちゃうしかありません。この記事書こうと思った自分、偉い!!!!!

全てが良好に向かって、うんうん、順調順調! と言いたいところなのですが、ひとつだけ、未だに悪循環から抜け出せていないもの、むしろ、悪化しているものがあります。それが「ご飯」です。自分が食べる分は、不思議とそれほど何も思わないのですが、他人に食べさせるご飯だけは、できるだけ自分が作ったものじゃないと、怖くなってしまうのです。これはもう完全に、母が料理嫌いだったこと、義理の父の死因、食生活が影響しています。そこまで語ると、あまりにも長くなってしまうので、別記事、「手作りご飯」にて。

 

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▼あれから

あれから、1年が経ちました。私はおおむぎ君と同棲し、母は、祖母と叔母が今暮らす田舎の方へ越していきました。訳あって、母は分骨が許されなかったのですが、小さな仏壇を買って、義理の父の好きだったものを日々お供えしているようです。何度も言いますが、鬼籍に入ったとはいえ、生前の義理の父を、私は今でも許せません。

でも、全てが嫌いだったわけでもなければ、誘惑たっぷりの現世とオサラバしてしまった人に、あっかんべーするほど根性悪にもなれないので、命日には、生前、義理の父が贔屓にしていた焙煎所のコーヒー豆を、母に送りました。いい香りです。仏壇に添えてあげてね、と。

それでも、1許せば、10許された、100寄っかかってもいい、と考えるタイプの母ですから、「こんな日ぐらい、義理の父の思い出話に花を咲かせてあげたいけれど、今の自分に余裕はないから、そういうことはしてあげられません。ごめんね」と書いた手紙も同封したのですが、それを受けた母が、あの母が「命日を覚えていてくれただけで嬉しい」と電話口で泣いたのです。てっきり、「自分が一番辛いのに!」「こういうときぐらい、話をきいてくれたっていいやんっ!」と怒鳴られると思っていたので、拍子抜けしちゃって。

ああ、母も一歩、一歩ゆっくりだけど進もうとしているんだな……。そう思ったそのとき、私の1年間の戦いが終わり、ようやく春を迎えたように思います。

 

この1年、支えてくれたおおむぎ君。人の死、毒親、社会……、全てに押しつぶされそうになっていた私は、誰とも関わりがないところに行きたい、としきりに思っていました。アナタが懸念していたとおり、どこかでふらっと死んでいたかもしれません。

今だって、たくさん迷惑をかけるけど、アナタが前に言ったとおり、お互い喧嘩できるほど状況は良くなりました。ありがとう。これからは、過去を見つめるのではなく、未来のために頑張っていきます。

 

大変長文になりました。私の溜め込んでいた排泄物に等しい文章を、ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。お口直しに、好きな飲み物でも淹れて、好きな作家様の本を読んだり、ドラマ・アニメ等々を見ていただけばと思います。

 

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