むぎのゴハン

食べるのも作るのもスキ おうちごはん、ライフスタイル中心に書きたいことを色々

書くことをもう一度はじめる

昔から、どんなことでも、想いを文字に起こす作業が好きでした。

読書感想文はもちろん、学校の授業の感想や、読み返すと大きなダメージを食らいかねない、かつての将来の夢についてなんかも。与えられたテーマに関心がなくても、ときには邪魔くさいな、と思っても、いつのまにか、生真面目に文字を綴ってしまっているのです。

これは、料理をしていても思うことですが、面倒と思わないこと。面倒と思っても、いつのまにかやりきってしまっていること。きっとこれらが、「好き」ということなんだろうなぁ、と。

こんなの、改めて文字に起こすことではないのかもしれません。でも、「自分について」を見つめなおす際、大事なポイントかもしれない、と最近よく考えます。

 

でもね、書くことの何が好き? と訊かれると、大変困ります。

・・・・・・何なんでしょうね。不思議と昔から、音声よりも、文字のほうが惹かれた、というだけで、「好きの理由」を、あまり深く考えたことはありませんでした。

ひとつ・・・・・・、ふと考えつくのは、自分に最適な自己表現の場だったのかも、ということ。

実は私、友達や担任のほとんどに「え、そんなに真剣な文章を書く子だと思わなかった」と驚かれてしまいます。つまり、感想文の課題なんかを「○○が面白かったです」「また見たいなと思いました」など、ありきたりなことを書いて、さっさと済ましてしまうようなタイプに見えた、ということです。

なんにも悩み事がなさそう。ぽやぽやしてる。それが、いろんな人に言われる私の第一印象の大半です。きっと、頭すっからかん娘にみえるんでしょうね。否定しません。それも、ひとつの私です。

でも、自分で言うのもなんですが、めちゃめちゃ色んなこと考えている瞬間だって、私の中には、たしかに存在して。ぽやっとしてみえるその内面では、浅いながらも、がむしゃらに泳ぎまくっていることがあるのです。これは、どんなテーマであれ、誰にでも身に覚えがあることではないかな、と思います。

ただ、私のそれは、自分でもわかるほどに、口にした途端、胡散臭くなったり、ただの綺麗事になってしまうようなことばかりで。あとは、反感を買うだろうなぁ、みたいなことも。

そういうことでも、文字にしてしまえば・・・・・・こう、不思議と許されるような気がしたんですよね。学生たちの大半は「文章を書くこと」を、自己表現の場として扱っていませんでしたから。だから、そういう、あまりスポットが当たらないフィールドで、好き勝手暴れることが、好きだったのかもしれません。それを悟ったらしい、高校時代の担任には、哲学を学ぶことを勧められましたね。

 

もうひとつ、私が文章を書くことが好きな理由。

思い当たるのは、あえて、難しい言葉ばかり使う新聞などは、あんまり好きになれなくて、もっぱら、読み手に自然と寄りそうような文章ばかり読んでいたこと。ぶっちゃけると、児童書が1番好きなのです。

新聞などに書かれている単語は、文字制限があるから余計でしょうか。単語ひとつで複雑な状況が説明できるものが多く、思わず唸ってしまうような、うまい表現だってそこらかしこにあって、それも美しいとは思います。

けれど、だれにでもわかるシンプルな言葉で、奥深く物語を描いている児童書に、私は心惹かれてしまう。だってそれって、逆にとっても難しいことだと考えているから。

これは文字の世界に限らず、様々なデザイン・・・・・・。どんなジャンルにも通じると思います。たくさんの飾りを持ってると、どうしても、キラキラにデコレーションしたくなっちゃうのは、何故なんでしょうね。

料理の味付けだって、美味しくするためにたくさん調味料入れたくなっちゃうけど、じつは、シンプルなままのほうが、かえって美味しかったり。広告だって、シンプルなもののほうが、逆に覚えてもらいやすかったり。

たくさん飾るのは簡単で、余計なものを削ぐ作業のほうが、うんと難しい気がします。

私は、余計な言葉を盛っちゃうほうなので、削るのに本当に一苦労します。それが原因でとても遅筆です。最適な語彙を瞬時に選びぬける、そんなセンスを持っている方がとても羨ましい。でも、その私にとって難解な作業こそが、私が文章を書くことを好きと思わせるモノ、なのでしょう。

 

 最近は、スマホの普及、SNSの影響もあって、暇つぶしとして文章にスポットがあたることが多くなった気がします。スポットが当たらない場所で、書くことに慣れていた私の文字を書きたい欲は、どんどこ薄れていました。だって、いつ「炎上」という形でスポットがあたってもおかしくない! そう思うと耐えれなくて、そそくさと逃げだしたのです。

けれど、近頃、私の心が囁くのです。お前なんかに誰がスポットあてんだよ。どんな恥ずかしい文章をネットにあげたとしても、それを誰かが見たとしても、明日になったら覚えていないに決まってるんだから、書くことをまたはじめようぜ! って。

レシピも載せたいから、ブログをもう一つ作るか悩んだんですけれども、 きっと、そんなことをした日には、もっと更新率が下がるし、そんな器用なことは向いてないから却下。レシピ記事はツイッターにあげるけど、独り言は気分次第にすればいいんだ。

だって、ここは私のフィールドなんだから、うん、なんでもありで、私ぽくていいんじゃないかな、なんて思ったり。

 

【レシピ】ボートズッキーニ

最近よく訪ねる直売所で、ズッキーニが大量に陳列しています。形が綺麗で大きく立派。無農薬にしてはお安いから、足を運ぶたび、ついつい買い物カゴに入れてしまいます。

そんな直売所の掲示板には、お野菜を使ったレシピがズラッと並んでいるのですが、その中のひとつに、「ボートズッキーニ」というレシピがありました。

そのときは、「へぇ、こんな食べ方もあるんだぁ~!オシャンティ~!ヒュ~!」と眺めるだけだったんですが、家に帰った途端、そのボートズッキーニを作りたくなってそわそわ。

ぽやぁと眺めただけなので、レシピはぼんやり。どんな味付けしているのか、ちっともわからない。でも、どうにかなる! といけいけどんどんで作ったら、意外にもオオムギ君にも好評の一品になったので、分量覚えているうちにメモメモしておきます。

 

【 ~ボートズッキーニ~ 】

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▼材料 

  • ズッキーニ(大サイズ)   1本
  • たまねぎ(みじん切り)  1/2玉
  • ツナ缶          1缶
  • 生姜(みじん切り)    1片
  • 味噌           小さじ2と1/2
  • 醤油              小さじ1
  • 砂糖           小さじ2
  • 塩コショウ        少々
  • ピザ用チーズ       お好みで
  • ミニトマト        お好みで
  • パセリ          お好みで

 

▼作り方

  1. ズッキーニを縦半分に切り、中身をスプーンなどでくりぬく
  2. くりぬいたズッキーニの中身を粗みじん切りにしておく(適当で大丈夫です)
  3. フライパンに少量の油を垂らし、生姜を加え、香りがでてきたら、たまねぎも加えて炒める
  4. たまねぎがしんなりしてきたら、ツナ(オイルごと)くりぬいたズッキーニの中身も加えた後、砂糖、味噌、醤油、塩コショウ少々を加えて全体がしんなりするまで炒める
  5. ボート状のズッキーニに炒めたものをつめる
  6. お好みでチーズとトマトなどお好みの具材をのせ、予熱しておいた230度のオーブンで8~10分ほど焼く
  7. あればパセリを散らす

 

▼ポイント

  • ズッキーニをくりぬくときは、適当にざっくざっくとくりぬいても大丈夫ですが、あまり乱暴にくりぬくと、写真のようにぱっかり割れるので、私みたく調子乗りすぎには注意してください(割れても全然大丈夫です)
  • 油分が気になる方は、ツナのオイルをきっても◎

 

オオムギ君いわく、ズッキーニズッキーニしいやつは好きじゃないけど、これはおいしい! とのことでした。味噌と生姜の香りでズッキーニらしさが消える上に、ボート部分のズッキーニのシャキシャキとした食感も残るから、おいしく食べることができたのかも。

ただ、私にはボートの形状が食べにくかったです。お子さんがいるようなおうちでは、カットしてから出すといいかもしれないです。

 

 

【レシピ】新生姜の佃煮

お久しぶりです。

オオムギ君のススメもあって、やっぱり、ちゃんとレシピ残そうと思って戻ってきました。あ、これだ! と思う分量にたどり着いても、今回こそ忘れないぞ!忘れないぞ! と唱えているのに、脳みその容量が少なすぎるんですかね。ひと月もしたら、調味料の分量なんて、頭からぽっかり消えてしまっています。

 

今年最後にもう少しだけ梅仕事をしたい!と思ってスーパーを彷徨っていたら、ようやく新生姜がお手頃価格に。うちはオオムギ君が生姜大好きなので、まあ体にもいいから、と思ってよく購入しています。

せっかくだからいろんな食べ方を試そうと思いつつ、私が、例えばガリをむしゃむしゃ食べれるほど好きか、といわれるとそうではないので。いや好きなんだけど、ひとくち食べて、あひょー!からっゴホォ! とむせる程度の好き。なので、砂糖生姜とか大変興味あるのですが、なかなかチャレンジできずじまいです。

 

そんなチキンな私の定番は、新生姜の佃煮。

いろんなレシピ探すんですけど、不思議と甘めの味付けをされる方が多いですよね。あんまりにも甘い佃煮のレシピが多いので、一度レシピどおりに作ってみたんですけど、予想通りの甘さ!

たしかに、甘いのも大変おいしいんですけど、どちらかというと、その甘さはお茶請けにちびちび食べたいお味。甘党なはずなのに、私的に白いご飯がすすむと感じる味は、もう少し醤油辛いお味でした。

ちなみに、飛田和緒さんのレシピでは醤油オンリー。飛田さんのレシピだから絶対おいしいよ!と思いつつ、甘党の私は醤油オンリーにドキドキして、いまだチャレンジできていません。いつか作りたい!

 

【 ~新生姜の佃煮~ 】

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【 ~材料~ 】
  • 新生姜    500グラム
  • 砂糖     100グラム
  • 醤油     120グラム
  • かつおぶし  ひとつかみ
  • 白ごま     おこのみで

 

【 ~作り方~ 】
  1. 生姜をよく洗う。土や汚れた部分を丁寧にのぞく(皮は剥かない)
  2. スライサー、または包丁でできるだけ薄く生姜をスライス
  3. たっぷりの水にスライスした生姜をいれ、中火で沸騰させたあと、1分ほど煮立たせてからざるにあげる(湯こぼし)
  4. 湯こぼしを3回くりかえしたら、なべに水けをきった生姜、砂糖、醤油をいれ、強めの弱火で汁気が少し残るぐらいまで煮詰めたら、火を止める
  5. かつお節、ごまを加えて混ぜる

 

【 ~ポイント~ 】
  • 生姜500グラムはわりと量が多いです。小分けにして冷凍したり、材料すべてそのまま半量でも作れます。
  • よくあるガリでなく、本格派のガリのピリッと感が平気な方は、湯こぼし2回で十分だと思います。1回にして10分湯がいていただいても◎

 

生姜シロップを作り終えたあとの生姜で、佃煮を作ることもできますが、生姜と同量の砂糖を一緒に煮詰めたあとのものなので、やはり、どうしても甘めの佃煮にはなってしまいます。甘めがお好きな方には一石二鳥なので、そちらの作り方もおススメです。

 

ここ数日でぐっと暑くなりましたね。うちは、保冷剤と扇風機だけであっぷあっぷしながらどうにか乗り切っていますが、夏場のキッチンは本当に灼熱地獄すぎますね。13時ごろ、特に心が折れそうになります。笑

【レシピ】栗かぼちゃの煮付け

こんばんは。

前記事でも軽く語りましたが、基本、私はめんどくさがりなので、味付けは舌任せ。計量カップ、スプーンをあんまり使わず、感覚で入れちゃうんですが、これをしているとね、風邪の時、すごく困りました。

味見しても、味が濃いか、薄いか全然わからない! 本当に、香りがふんわり遠くに感じるぐらいだったので、「んー、なるほど! こういうときのために、レシピにしておくことが大事なんだな!」と、しみじみ痛感いたしました。

 

ということで、今日は基本中の基本、だけど重宝するかぼちゃ煮のレシピを。そのなかでも、甘くてホクホクとした栗かぼちゃにおすすめのレシピです。

風邪予防に冬至に食べることから、なんとなく冬のイメージがありますが、実はかぼちゃの旬は夏。これから、体を冷やす夏野菜が多く出回りますが、かぼちゃは体を温めてくれる食材、クーラーがんがんになる、これからにぴったりの食材です。

私は、昔からかぼちゃが大好きなんですが、かぼちゃ煮は、あんまり好きになれなかったんですよね。かぼちゃそのものの甘味を味わいたいのに、濃い味付けが邪魔に思えて仕方なくて。だから、レンジでチンしただけのかぼちゃをよく頬張っていたんですけど、久しぶりに食べたくなっちゃって、ずいぶん前に、レンチンかぼちゃを晩御飯に出したら、「美味しいけど、口の中の水分が全部吸われる」っておおむぎ君が食べにくそうに。笑

なるほど、なるほど。味を追い求めた結果、私の中で「かぼちゃはもそもそして当たり前」のモノだったけど、改めて意識して食べると、たしかに、もそもそして食べにくい……。

 

そこで、かぼちゃらしいかぼちゃを食べたいときは、かぼちゃ煮にすることにしたんですけど、既存のレシピで作っても、やっぱり好きになれなくて。お出汁で煮たり、いろいろ試したんですけどね、どうしてもしっくりこない。

そんなとき、幼馴染のお母様に、尊敬する飛田和緒さんのレシピ本を頂きました。ありがたや~、とぺらぺらめくっていたら、砂糖と塩だけで煮た、かぼちゃ煮のレシピを発見。それ見た瞬間、目玉が飛び出そうでした。「アッヒョ!」ってグーフィーみたいな声出ましたよ。

お料理しはじめたばっかりでしたからね。私の中で煮物といったら茶色! 味付けしっかり! という謎の固定概念があり、足し算ばっかりしてたんですけど、あ、引き算ありなんだ! そりゃそうか!っていう。
そうして完成してのが、このレシピ。ちゃんと数字にできたのは最近の話ですが、ホクホクのかぼちゃのときは、この味付けが1番気に入っています。

 

【 栗かぼちゃの煮付け 】

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【 材料 】

  • かぼちゃ     1/4カット
  • 砂糖       大さじ1
  • みりん      大さじ1
  • 薄口醤油     大さじ1
  • 水        100cc~
 

【 作り方 】

  1. かぼちゃの種とワタを取る
  2. 水で濡らしたかぼちゃをラップに包んで、600wで3分ほどレンジでチン
  3. ある程度冷めたら、お好みのサイズにカット
  4. 平たい鍋に、かぼちゃをぽいっと放り込んで、砂糖大さじ1をいれる。かぼちゃ全体に砂糖が絡むように、鍋を振る
  5. 砂糖が全部溶け、かぼちゃがしっとりとしたら、皮を下にして、かぼちゃ同士が重ならないように並べる
  6. 水、みりん、薄口醤油を入れ、火にかけ、煮立ったたら、弱めの中火にし、アルミホイルで落し蓋をして、汁気が少し残るぐらいまで煮詰める
  7. 竹串がスッととおれば完成


【 ポイント 】

▼ かぼちゃを切りやすくするために、私はあらかじめ、かぼちゃをレンジで温めていますが、時間のない方や、面倒な方はレンジでチンしなくても大丈夫です。

▼ 煮詰めるとき焦がさないよう、鍋の中を定期的にパトロールしてください。

▼ 汁気がなくなっても、まだかぼちゃが固い場合は、水を50ccほど増やして、さらに煮詰めてみてください。

▼ かぼちゃの甘みが引き立つ味付けにしています。お醤油の香りが欲しい方は、薄口醤油を濃口に変えてください。

 

【 栄養 】

かぼちゃはβ‐カロテンビタミンCが豊富に含まれていて、皮膚や粘膜を丈夫にするので、美肌効果や、風邪予防にもってこいの食材となっています。
皮は果肉異常に栄養価が高いので、できるだけ摂取することがオススメ。ワタに含まれるβ‐カロテンは、果肉の5倍。捨てずに味噌汁の具などにすると◎
種は皮をむいたあと、炒って塩を振れば、亜鉛や鉄分が多く含まれた美味しいおつまみに。でも、美味しいぶん脂質も高いので、食べ過ぎには要注意です
選び方は、種がふっくらとして、果肉のオレンジ色が濃いもの。ヘタが枯れているものが、甘くて美味しいかぼちゃになります。

 


余談。

私が目指すのは、素材の味を楽しめるシンプルな味付け。たまーに、お醤油辛いかぼちゃも食べたくなるんですけどね。特に、ベチャッとしている日本のかぼちゃのときは、味付けを濃くしたほうが美味しいと思います。

基本、「みりん:砂糖:醤油=1:1:1」の比率さえ守れば、かぼちゃは美味しく煮ることができるので、そこからは、お好みで分量を変えていけば、自分好みのかぼちゃ煮が作れるはず。あまった際は、かぼちゃコロッケや、かぼちゃ餅にアレンジするもよし。チーズソースをかけるのも私的におススメです。

私は最近、お腹が空いたら、おやつとしてつまんだり。おおむぎ君も、先にお風呂に入るときは空腹に耐え切れず、パクパク口に放り込んでいます。お菓子をつまむよりかはずっといいけど、おかず減るからこれから倍量で作ろうかな……。なんてちょっと悩み中です。笑

 

【宣誓】インスタントもジャンクフードも受け入れます

私の性格は、大雑把で適当、なおかつ面倒くさがり。計量カップや、計量スプーンを汚すのが面倒くさいからといって、料理の味付けもほとんど目分量、味覚任せ。うすあげの油抜きなんかも、気が向かなきゃやりません。

料理って、下ごしらえを丁寧にやれば、丁寧にやった分だけ、味にも、見た目にも反映されるジャンルだと思っています。本来、面倒くさがりが好きになれるはずがない気もするんですけど、どういうわけか、私は好きになれちゃったから不思議なものです。

一度も会ったことはないんですけれども、血の繋がりのある祖父の方が、実は、割烹を長年営んでいたらしいので、それが隔世遺伝したのかな……、なんて考えることもあります。祖父にしても、私にしても、そのお味が美味しいものかどうかは、さておきですが。笑

 

▼手抜き恐怖症

私はお料理が好きです。食べることも好きです。デミグラスソースを作ってハヤシライスとか、キャベツを一枚一枚湯がいてロールキャベツとか、べらぼうに時間がかかる昆布巻きとか。そういう、大変手が込んだモノを作りたい時もあるし、洗い物も含めて、1時間以内で済ましてしまいたい気分の時もあります。

けれど、私の中の最大の手抜きは、1時間以内で全てが終わるもの。そこに、外食や、スーパーの惣菜、冷凍食品、インスタント商品の力を借りる、ということは含まれていません。

自分が食べる分にはなんでもいいんです。面倒くさいが先行するので、それこそ、納豆だけでも、お茶漬けでも。ところが、人に物を食べさせるとなった途端、ある程度栄養があって、自分が作ったものじゃないと怖くなってしまうんですよね……。いやはや、他人からみたら、まあなんと面倒くさい奴でしょう。笑 

私も、元来の性分は、面倒くさがりなので、「はあ! ここ手抜きできるのに! なんでできないんだか!!」と心の中で、自分をビンタしています。

 

怖くなってしまう原因は、日頃の食生活がたたって、早死してしまった人を間近で見てしまったから。どれだけ料理が好きでも、作りたくない時があるのは当然だし、疲れているときぐらい、キッチンに立たなくったっていいのに、「……ここで手を抜いたものが、積み重なって早死させてしまったらどうしよう」という風に、私の思考回路が繋がるようになってしまっているんだと思います。

早死したのは義理の父なんですが、死因は高血圧によるものでした。病名は大変難しくて忘れてしまいましたが、大動脈解離に似たものなんだとか。

義理父の食生活は、高血圧で、毎回健康診断に引っかかるのに、病院は嫌いだからといって通院はせず、適度に気をつけながら、好きなものを食べる日々でした。

スーパーの惣菜、チョコやアイス、炭酸飲料など糖質、脂質の高いもの、鶏皮とか、塩気が強いものとか。体を気にして控える場面もありましたが、あとは好き勝手に食べていました。アイスなんか、毎日2本食べている日も多かったです。

晩ご飯によく出てくる、スーパーの惣菜にしても、味が濃いし、脂っこいしで私はあまり好きじゃなかったので、母に「惣菜ばっかりだと味濃すぎない? 栄養的にダメじゃない?」と何度も訴えたのですが、「働いてるからしんどいねん。そんなん言うんやったら、たまにはアンタが作り」と返ってくるだけ。

「そりゃそうか~!花嫁修業がてら、いっちょ飯作り頑張るか~!(そのときは、興味はあっても、文句を言われるのが嫌で、あまりお料理することはなかったので)」

と、私がキッチン立ったら、「そんなものにみりん入れたん?」とか、「なんでこんな使い方すんの?!」「またそんなもん作って……」とか、最初だから下手くそで当たり前なのに、やっぱり文句の嵐をぶつけられまくって。しょげた私は、キッチンに立つことはなくなりました。(そんなんにみりん入れたん? は、料理がある程度できるようになった今だからこそ、納得できていません。笑)

それでも、惣菜を食べるのは嫌だったので、惣菜が並ぶ日は、納豆とかゆで卵とか、ササミ茹でただけとか、かぼちゃを電子レンジで温めたものとか、そんなものばっかり食べていましたね。(素材そのものを食べたり、塩をちょん、とつけて食べるの大好きです)

 

私の場合、長いフィギュアスケート人生の中で、毎日ダイエットをしていたから、味の濃いもの、脂っこいもの、を自然と身体が受け付けなくなってしまったのかもしれません。でも、それって要するに、私がノンノン! と首を振るものは、太りやすくて、摂取しすぎると体に悪いものということになります。私が考えるに、高血圧さんが、それを進んで摂取したら、そりゃ寿命縮めることになるのでは? という。

ちなみに、甘党の私は、こと甘いものになると、首を横に振る回数が極端に減ります。それでも、義理の父の甘味摂取量は、私に比べると桁違いでした。高血圧の面だけ考えれば、塩分過剰摂取よりかは、幾分かマシなのかもしれません。だとしても、「貴殿は、糖尿病にでもなりたいのかっ!」というレベル。

限度はあれども、食べたいものをある程度好き勝手食べたいなら、病院行って、お薬かなんかをもらわなきゃいけないでしょうし、病院行きたくないなら、自分で塩分管理等々しなきゃ駄目でしょう。どっちもしていない人が、高血圧で体が壊れてしまうのは、そりゃ自業自得というもの。

 

▼背伸びしない食事

〈太く短く〉か〈細く長く〉か――。

長生きするのが幸せとは限らないし、どちらの人生を選ぶのも個人の自由だけれども、残されて悲しむ人を見てしまった私は、美味しいもの、好きなものを毎日少しずつでいいから、好きな人とニコニコ笑いあいながら食べていく人生の方が、よほど幸せじゃないのかな、と思うようになりました。

そう考えてしまうからこそ、私は、インスタント、スーパーの惣菜、クックドゥなどのお助け調味料、外食、などなど……。

それらの力を借りたら、毎日、とっても楽になることがわかっているのに、わけのわからない化学調味料とか、塩分摂取量とか全部が恐ろしくて。全部手作りで、何を入れたか見えていないと気がすまなくなりました。多分、その類で使えるのといえば、白だし、顆粒だし、コンソメ、中華だしの素、オイスターソース、他ソース等々ぐらいだと思います。でも、これらも知識を得れば得るほど、どれもこれも体に悪いように思えて、なんとなく忌避してしまっているのが実情です。

 

会社員時代、家から職場までとても遠かった私は、朝が早くて、残業なくても、普通よりは帰宅時間が遅くて。なのに、朝ご飯も、お弁当も、夜ご飯全部手作りしてしまうという、新社会人なのに料理に妥協できないマンに。

なおかつ、働いていた母にかつて文句言ったからには、「どれだけ忙しくてもご飯は作れる!」「自分は母親と違って、朝から夜まで働いているけど、それでも頑張っているんだぞ!」と証明したかった、という気持ちも、自炊完璧にしていやるマンを助長していました。ぶっちゃけるとそんな意地、持っていたってお荷物でしかありませんでした。たいへんしんどかったです。家にいても、休む暇がノンノン!

そのうえ、当時の私は、ほか記事で語ったとおり、義理父の死で、怖いものもたくさん増えてしまって、保険金のことやら、母が住む場所やら、いろいろ毎日揉めて……。たくさん嫌なことが積み重なって、精神的にピークを超えていました。

だから、私はお仕事をやめました。心が落ち着くように、料理に思う存分、時間を使えるように、と。……結果、私はたしかに、自由にご飯を作れるようになりました。が、時間に余裕ができたからこそ、知識をたくさん得ることができたし、なんでも作れた。それがなおいっそう、どんなものでも、手作りしなければいけない、怖くなってしまう呪いに拍車をかけてしまったように思います。

作るのは楽しいです。お料理大好きなんです。でも、たまには手抜きしたくて、お休みしたくなるときもあります。「今日は外食でいっか! スーパーの惣菜でいっか!」と思えないことが、とっても重くて仕方ない。これでは、この先生きていくのがしんどいな、と日々痛感しています。

 

▼幸せな死に方

こないだお亡くなりになられた、野村監督の奥様、サッチーさんは、生前、こんなことをおっしゃられたそうです。

どんな生き方したって、人間の寿命はもう運命で決まっているんだ。だから、健康に気遣ったって無駄。好きなようにタバコ吸って、好きなもの食べて自分は生きるんだ、と。

私は、タバコ吸おうが、体に悪いものばっかり食べようが、人間の寿命は変わらない、とまでは思えません。ですが、タバコ吸っても長生きする人はするし、食べ物にどれだけ気遣っても、事故や病で早く逝ってしまわれる方がいるのも事実です。実際、旦那さんよりも早くに鬼籍に入ることになってしまいましたが、サッチーさんは、サッチーさん本人が望まれていた、〈幸せな死に方〉を迎えることができたのですから。

……要するに、ある程度は気にしたほうがいいけど、神経質になりすぎるのもよろしくないよね! ストレスだって、寿命縮めちゃうんだよ! っていう。うーん……、よろしくないというより、面白くない生き方、ですよね。私が大好きな某毛玉シリーズの狸もしきりに言いますから。「面白きことは良きことなり!」と。

 

私が大学生だった頃、ゼミの先生がおっしゃっていた言葉が、最近蘇ります。

「ジャンクフードに対してさ、『こんなの体に悪い』とか言う奴おるやん。俺、あれ嫌いやねんなぁ。いやだってさ、ジャンクフードは名前のとおり、『あ~、体に悪いもの食ってる~!』っていうのを、楽しむもんなわけやん。あんなもん、体に悪いなんて誰だってわかってんねんからさ。体に悪いもん食いたくない人間は、端からジャンクフード食うなって話やん」

いや、まったくもってそりゃそうだ、と膝をうちながら、自分にはどキツイ言葉だな、とも思いました。私も、ジャンクフードは手軽に食べられるけど、どうしても食べるものがないとき、しょうがなく食べるもの、とか。そういう最終手段として考えていた口なので。選手時代の「ジャンクフード=太る、悪」という方程式から、抜け出せていないというのも、あるんだと思います。

でも、よく考えたら、「しゃーなし食べたってんねん」っていう輩より、「あ~、体に悪いモン食ってる~!でも、うめぇ~!」って喜んで食べる人間の人生のほうが、はるかに面白い。だって、生きている中で、100%体に良いものばかりを口にする人生を送れるか、といえば、そういうわけではないのですから。

もちろん、ジャンクフードを毎日の主食にしてしまう人が身近にいたら、「ちょっと待った!」と言いたくなってしまいますが、たまに食べる時ぐらい、どうせなら、楽しんで食べるにこしたことはないな、と。そのほうが、死ぬ直前、「豊かな人生だった」と思えるに違いないでしょうし。……なんでも楽しんだもん勝ちに、私はなる。(チキンクリスプコスパ最強だと思います)

 

▼台所の支配者

最近は、同棲中のおおむぎ君が、お休みに外食に連れ出してくれることがあります。お仕事を辞めたのは、私が不安定な状態だったから、というのもありますが、元々は、お金に多少困ったとしても、土日くらい、二人でゆっくり過ごせる時間を増やしたいよね、という気持ちがお互いあったからなのです。お互い働いていると、どうしても土日は、家事に追われるばっかりで終わってしまいますから。

だから、外食にいけば、作る時間も省ける、後片付けもしなくて済む。お金は失っちゃうけど、ゆっくり過ごす時間は増えるんだよ。たまにはラクしていいんだよ。とのことで、少しでも外食に頼れるようにしていこう、としてくれているみたいです。申し訳ないようで、ありがたい。

 

mugi-mugino.hatenablog.com

 

上記の記事にも書いたとおり、この一年、たくさん怖かったことが、今はそこまで怖くなくなってきています。けど、唯一悪化しているな、と思うのが、このご飯作りへのこだわり。今やっていることは絶対無駄ではないし、将来も役に立つことだとは思うのですが、それにしたって、もうちょっと、気を抜いてもいいんだよ、自分! ラクすることも覚えていかないと、この先しんどいぜ! 「お前手抜きしてる!」って、誰かに指さされたって、「黙らっしゃぁーーいっ! 台所の支配者は我ぞ! 支配者に文句は許さぬっ!」とか言えるようになっておこう!

 

この記事は、今の自分、未来の自分への往復ビンタ文章でした。背伸びしすぎない、シンプルで美味しく、たまにはジャンキーでインスタントなご飯作りを目指して、頑張っていきたいと思います。ここまで目を通してくださってありがとうございました。 

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「今まで苦労して育ててきた分、楽をさせて」と言う毒親、そして再婚の話

例えば、「自分がいなければ、アナタは生まれていないのに」とか「今まで苦労して育ててきたぶん、自分をラクさせて欲しい」とか、「腹を痛めて産んだのは自分なのだから、アナタのものをどうしようが私の勝手」とか、「○○ちゃん、くんは、私とずっと一緒」など……。

今、このブログを読んでくださっている方の中で、こういった言葉を、親にかけられたことがある方は、はたして、どれほどいらっしゃるものなのでしょうか。その中でも、それが「親として絶対に言ってはいけない言葉である」ということをご存知の方は、そのうちの何割なのでしょうか。

少なくとも私は、これらが、〈親として言ってはいけない言葉〉であることを、つい1年半ほど前まで知らなかったし、言われて当然の言葉だと思って過ごしてきました。

大人の庇護なしには生きてはいけない子どもにとって、親の言うことは守らなければならないもので、それが「本当に守るべきものか?」という疑念を抱いたとしても、中々、「自分の疑問、考えが正しい」と信じることが難しいですよね。疑問を抱いても、親の「従えないなら、家を出ていけ!」みたいな声にかき消されて諦めてしまったり、そもそも、疑問を抱くことすらなく過ごしてしまうパターンが多いのではないでしょうか。私の場合は、前者でした。

 

ここまで読んでドキリ、とした方、自分の親が〈毒親〉かもしれない、と思っている方、苦しんでいる方。それから、〈親の再婚〉を喜べない方、悩んでいる方。子どものことを考えて〈再婚〉することに悩んでいる方。

私は、毒親の娘として、親が再婚しようとした娘の立場として、自分のことをありのまま語っていきます。幸せのカタチは人それぞれなので、私がたどり着いた答えが、必ずしも、その人の幸せに繋がると断言はできませんが……。

それでも、昔の自分みたいに、どこかで悩んでいる、諦めているたったひとりの〈気付き〉に繋がったり、背中を押すきっかけ、または己を振り返るきっかけになれればいいな、と思います。私は、そのきっかけを得ることができて、変わろうとしたことで、とっても苦しんだこともあったけれど、とても楽になった部分も数え切れないほどありました。まず、現状の異常に気づいて欲しい。そして、苦しんでいる自分は正しいのだ、と認めてあげることができるようになれたなら幸いです。

 

 

▼過干渉タイプの毒親

私の母は上記のセリフをしきりに呟く、いわゆる〈過干渉タイプ〉の毒母でした。それは、元来の母の性質によるものも勿論大きいですが、きっと、過干渉を加速させてしまったのは、私の習い事のせいもあるだろうな、と考えています。

小児喘息を患っていた私は、「寒いところのスポーツがオススメ」というお医者さまのススメで、フィギュアスケートを習い始めました。最初は、本当にただの治療目的の習い事だったのですが、……いつごろからでしょうか。

「将来の夢は?」と誰かに尋ねられたら、「もちろん、オリンピック選手やんな?」と、間髪を容れず母や先生が答えるように。そうして、幼少期の私の中での将来の夢の答えは、〈そう答えなければ怒られるモノ〉として「オリンピック選手」になっていきました。いつの間にか、お遊びの習い事は「オリンピックを目指した習い事」にすり替わってしまったのです。

けれど、私自身、氷上に立ち続けた10年間の中で、オリンピックを目指したい、と思いながら滑ったことは、本音を言えば一度もありません。幼い頃は、オリンピックが何なのか理解していなかった、というのもありますが、オリンピックが世界中の人が注目する大変輝かしい舞台、ということを理解してからも、本当に不思議なくらい、オリンピックに興味が湧きませんでした。

それよりも、私の中で価値があったのは、スケート仲間と日々楽しく練習すること、母親や先生を喜ばせること。試合で1位を取ったり、周りが私を「すごい」と言ってくれるたび、母が褒めてくれて嬉しかったから、当時どんなきつくても練習をがんばれたのです。

冷静に考えれば、きっと誰から見ても、典型的な「子どもの習い事や成績が、親のステータス」状態だったと思います。事実、祖母は私をみて、しきりに「かわいそうに」言っていましたし、「子どもはあんたの操り人形じゃない」と度々忠告して、母とよく喧嘩していました。

 

▼娘に投資

ご存知の方も多いかとは思いますが、フィギュアスケートはたいへんお金のかかる競技です。ウチは母子家庭でしたから、勿論、お金に余裕なんてなく。それでも、10年間もスケートを習い続けることができたのは、母が寝る間も惜しんで働いてくれたから、なわけなのですが。それ自体は、大変ありがたいお話です。

ただ、日々、疲れた体にさらに鞭打つ母は、唯一の救いとして、私の将来に自分の未来を重ねていました。だって、オリンピック選手にでもなれば、将来安泰の可能性が大きくなるわけですし、〈オリンピック選手の母〉として、誇りも名誉も得られますから。自分の苦労が報われる……。そう考えるなら、私の将来に、自分の全てを投資しているような気になっても、確かにおかしくはなかったのでしょう。

けれど、これって、お子さんと適切な距離感を保つことができている親御さん方なら、首をかしげる話だと思います。私も、たくさんの人から「おかしいよ」って言われて、最近気づけました。昔から母は「将来はアナタにラクさせてもらわなきゃ」と唱え続けていたので、私の中には「私のわがままで、母に苦労させている。申し訳ない」という考えが、知らぬ間に刷り込まれていたんですよね。

喧嘩のときだって、「私もブランドのカバンを買ったりしたいのに! もっと努力してよ!」なんて怒られて。今なら「いや、知らんがな」って鼻くそほじくりながら言えるんですけど(笑)当時は、友達に「どうしたらいいんだろう」って泣きついていました。

けれど、これはどう考えても、私がどうにかしなければならないものではない、と今ならわかります。いろんな人に「自分がどれだけ苦しい思いをしたとしても、親は子に見返りを求めるものではない」と教えていただいたので。

カウンセラーの先生にも、ちらっと親のことを話したら、とんでもない、と言いたげな顔で首を振って、「(将来は楽させて欲しい、という言葉に対して)それは……親として一番言ってはいけない言葉ですよ」とおっしゃられていました。

これだけ周りに言われたので、理屈では「苦労をかけたことは、私が謝るべきではないこと」とは、わかっているんですけれども。……それでも、いまだ、私は母に、心の片隅でどこか申し訳なくなってしまうのです。幼少期からの刷り込み、ってとっても恐ろしいなって思います。

 

▼オンリーワン

練習量だけは人一倍多かったので、人並以上に技術は向上しました。それに伴って、周りの期待も、母の期待も、どんどんと重くなっていったのですが、それでも、私のオリンピックを夢見る熱は一向に高まりませんでした。私は、楽しく滑れたらそれでよかったのですが、「お遊びでやりたいなら、こんな金のかかるスポーツ、今すぐやめてしまえ!」と言われてしまうから、てっぺん目指してやるしかない。

母に申し訳なさを感じているせいもあってか、余計にその温度差が苦しくて、何度もスケートを辞めるか悩みました。けれど、その度、私は怖くなって踏みとどまってしまうのです。

小学校を早退してまで練習してきた自分からスケートを取ってしまったら、そこには一体何が残るんだろう……。今まで費やしてきた膨大な時間の代わりに、この先、何をあてがえばいいのだろう……と。

そんな自問自答を、幾度も幾度も繰り返しながら、日々の練習に励み続けました。……が、自分の中に「何が何でも勝ちたい」という闘志がないのに、周りの期待通りに走れるわけがありません。

私は、疲労骨折をきっかけに、どんどんライバルたちに追い抜かれていって、試合の成績も悪くなっていきました。いつしか、母親の口癖は「他の子はあんなに頑張ってるのに、あんたは全然がんばれていない」に。

私も思いました。「絶対、次は1位を取ってやる!」と心の火を燃やしながら練習している子と、楽しく滑れたらそれでいい自分……、差がついて当然だ。怪我なんてハンデがあったら、もっと追いつけなくて当然だ、と。

 

もし、自分に家族ができたら、と思いながら、振り返って思うのです。自分の子どもと、他人の子、母親が比べてはいけないな、って。そりゃ、大勢あっての個ですから、時にはその子の〈個性〉を見出すために、他人と比べることも必要なことだってあるでしょう。

けれど、子どもにとって親は、唯一、無条件で頼ることのできる場所なのです。子どもが一番辛い時に、「アナタは頑張ってるよ! アナタはここがすごいんだよ!」って信じてくれなかったら……。それどころか、まるごと否定されてしまったとき、子どもは、どこで安らげば良いのでしょうか? 明日も頑張るための燃料を、どこで補充すればいいのでしょうか? 親だけには、ナンバーワンでなく、オンリーワンを見ていて欲しいのに。

 

▼スケートが好きでなくなったとき

二度目の疲労骨折のとき、私のなかにあった僅かながらの燃料は、もはや燃え尽きて空っぽの状態でした。周りからは、ブランクを埋める努力をしろ、と追い立てられるし、怪我のせいで思うように楽しく滑ることもできない。何のために滑っているのか、頑張っているのか、本当に見失ってしまって……。

三度目の骨折は練習中にボッキリと。スケートに向き合う姿勢が悪くなっていく中で、その日は、特にウォーミングアップを怠った日だったので、骨折して当然でした。だとしても、三回も骨が折れるって才能がないんだろうな、って自嘲しながら、それでも、私はスケートをやめることができませんでした。

リハビリを頑張って、必死にブランクを埋めようと、努力しようとすることを努力して。心はもう嫌だ、って叫んでいるのに、「いや、まだまだ全然頑張れていない。ほら、あの子はまだトレーニングしてるもん」って自分を追い詰めて、本心を無視して。

 

そんなある日、ある選手の親御さんが、「私の子どもが『むぎのちゃんはすごい。三回も大怪我したのにさ、ひとりモクモクリハビリして、アップして、練習して。絶対私だったら、もうスケートやめてる。すごい頑張ってるよね』って言ってたよ」と、私の母に話したそうで、母は泣きながら私に謝ってきました。

「ごめんね、ずっと頑張ってないと思ってたけど、本当はすごく頑張ってるんだよね。えらいね」って。

今思えば、母も他人に認められたことで、娘の評価、というよりも、自分の評価はそんなに悪くない、とホッとしたんだろうな、と思うのですが、当時の私は、そんなにひねくれていなかったので、(笑)

母に認めてもらえて、頭を撫でてもらったら「そっか、私って頑張れてたんだ……。そうなんだ……」って、なんかもう全部が許されたような気がして。ずっと張りつめていた糸がはじめて緩んで、自分の中で消化しきれずモヤモヤしていたものが、サァア、と消えていって、すごく満たされたんですよね。

正直、争うことは向いてなかったな、と思います。バーゲン戦争に割ってはいることすら苦手なぐらい、人と争うのが苦手なので。それは、もう性分だから仕方ないと今では諦めています。……これは、一人っ子あるあるなのかもしれませんね。(笑)

でも、純粋に滑ることは好きでした。じゃないと、どんな理由があったとしても、十年も続けられなかったと思います。ただ、その時の私の中には、「滑ることが好きな気持ち」はもう1ミリも存在しなくて、スケートは単に「母親に褒めてもらうための手段」と化していたことに、そこでようやく気づけたのです。気づけた瞬間、じゃあ、今の私にもうスケートはいらないなって、はじめて素直に思えたから、もう今言うしかないんだと、その場で「スケートは、もうやめる」と母に伝えました。

 

▼子どもだってひとりの人間

私たち親子は、スタートから誤っていました。最初はただの習い事だったのに、いつしか、世界に羽ばたくために練習するようになって……。

母曰く、父と離婚したあと、喘息は治ったし金銭的にも厳しいからと、幼い私に「スケートに通うのは難しいかもしれない」とお話したそうです。でも、純真な子どもの言葉は、時にまこと残酷です。幼い私は、「私からパパだけじゃなくて、スケートも奪うの?」と泣いたそうで。

おそらく、滑るのが楽しかったから、という理由もあると思いますが、1番はお友達と離れたくなかったから、というものではないかな、と思います。とはいえ、私自身、そんなことを言った記憶は、これっぽっちもないのですが。笑

それでも、当時の母はこの言葉に大変ショックを受け、その際「自分がどんなに苦しくても、血反吐を吐いてでも、この子にスケートを続けさせてやるんだ」と誓ったそうです。

その呵責が、いつしか、母の絶対果たさなければならない使命となり、そして、自分の苦労を娘の将来で癒そうとせざるを得なくなって……。母も苦しいのに、私も苦しいという、お互いの気持ちが見えない、どうしようもない悪循環を生んでしまいました。

 

習い事が苦しい、親の圧力がすごい、と感じている人に、私から言えるのは、それは悪いことではないのですよ、ということ。親の顔色をうかがっても良い事はないです。子どもは親の道具ではなく、ただひとりの、オンリーワンの人間! 好き嫌いがあって当然で、好きでも、やりたくないときはやらなくてもいいし、好きになれなかったら、きっぱり「やめる」と言ってしまうのが、早々に「この子にはこの子の意思がある。ひとりの人間なんだ」と親に気づかせることにつながるのだと思います。そうすることが、結局はお互いのためになるのです。

それで、たくさん喧嘩することになっても、それは頑張って戦っている証。そこが踏ん張りどき。「あなたのためを思って」だとか、「どうしてわかってくれないの」とか、あらゆる言葉、手段を使って、親も必死で自分の子どもを〈理想の人形〉に仕立てるために、色々まくしたててくると思いますが、親にとっていいもの、社会にとっていいものは、その人にとって、必ずしもいいものであるとは限りません。人生のレールは自分自身が作っていくべきもので、親が引くものではないのです。子どもの人生はその子だけのものなのですよ。

 

 

▼ふっ、と現れたオジさんとシェアハウス感覚

ここからは、スケートをやめたあとの話。母も私も、これまでスケートに費やしてきた時間を自由に使えるようになりました。私がスケートを辞めたのは、中学生のとき。いまさら部活に入ってもな……、と思っていた私が、たどり着いたのは、元々好きだった読書と、アニメを見ること。自分の好きなように過ごせる時間は、大変有意義なものでした。友達と遊ぶことも増えて、あんまり食べたことのなかった、ファストフードも食べるようになって。授業にもまともに参加できるようになって、それはもう楽しい日々でしたね。(ファストフードに関しては、結局好きになれなかったんですけど)

一方、母は、母がこの先、ずっと一緒にいたいと思う男性とお付き合いし始めました。私は別に拒否しませんでした。だって、私のスケートに縛られることもなく、ようやく、好きなように生きることができてよかったなぁ。私も、母の注意が逸れて、文句言われず好きなこと自由にできるし。ウィンウィンだよね~とぼんやり思っていたので。笑

 

そうして、高校生のとき。母から「お付き合いしている人と、一緒に住みたいのだけど、……イヤ?」と尋ねられました。私は「別にいいよ」と答えました。その時、既にそのお付き合いしている方と、何度も一緒にご飯を食べに行ったりした中で、悪い人、だなんて一度も思わなかったので。

もちろん、私から見たら、どこにでもいそうなただのおっさんです。「めちゃくちゃ一緒に住みたい!」と思っていたかと言われたら、またそれは全然違うのですが、感覚的に言えば、シェアハウスに住む、みたいなもんかなぁ、と。

そりゃ、母だって女の人で、パートナーが欲しいのもわかるから。それが、今まで散々苦労させてきた、母の幸せになるのなら、私は喜んで歓迎するべきなのだ。当時の私は、そう考えていたのです。

いざ、一緒に住みはじめると、最初は楽しかったです。初めて、自分の部屋ができて「うっひょーー!」って感じでしたし、三人で一緒にゲームをしたり、横暴な母の意見に、一緒に「それは違うよ」と一石投じてくれる人が出来たので。

それでも、私の感覚はあくまで、「遠い親戚のおじさんと仲良しライフを過ごしている」にとどまるもので、「父親と過ごしている」というものでは、けっしてありませんでした。そこに、親たちと齟齬を感じたのは、私が、はじめて男性とお付き合いしたとき。

 

正直、親からみれば、あまりいい男性とは思えない人で、今、私が振り返っても、「とんでもない人とお付き合いしたもんだなぁ。うんうん、人生経験ってやつだねぇ」って感じの人だったのですが、お付き合いが親に露見したとき、言われたんですよ。私から見たら、最近知り合った、遠い親戚のおじさんに「そんな子だと思ってなかった。幻滅した」と。

んん? と私は我が耳を疑いました。いやだって、幻滅したって、逆にどんな理想を思い描いていたの? っていう。たった1年、同じ屋根の下で過ごしただけなのに、この人、私の何を見て、何を知ったんだろう。勝手にどんな幻想を抱いて、幻滅したんだろうと。

まるで、窓辺で読書する清廉な女の子であることを求められたような。アイドルは清純なもの、ふしだらなスキャンダルなんて許せない! とか、うちの子に限って、そんなことありえません! みたいなことを言われたような。穢らわしい、って言われたような気分というか。控えめにいって、大変気持ち悪かったです。

そりゃあ、年頃の娘ですから、失敗もしますよ? 父親に「あんな奴、認めん!」って思われても仕方がない人と、お付き合いをした自覚は確かにありました。けどね、でもね、ただの仲良しのおじさんに「幻滅した」なんて言われるほどのことをしたとは、到底思えなくて。子どもは火傷してなんぼでしょ、と。それは、私の中で、今でも許せない一言です。

 

それからというもの、私は、ただの仲良しおじさんを避けるようになりました。露骨にではなく、一緒にゲームするのを「パソコンしたいから」と断ったり、旅行も、「二人で楽しんでおいで。私はマンガ読みたいから」って断ったり。それは私の中で、「これ以上、父親と錯覚しないでほしい」「私は、父親を求めていない」という、家の中の関係を壊さないように気を使った、最小音量による必死の訴えでした。

母は、それを察しなければいけない立場だったと、私の叔母は語っていました。私も、母だけは私だけの味方でいて欲しかった。けれど、実際の母が私にかけ続けた言葉は、「なんでそんなに嫌うの?」「旅行ぐらいちゃんとついてきなさい」「お金あげるから、父の日、誕生日になにか買ってきてあげてよ」「頭ぐらい、撫でさせてあげなさい」「どうして、私を困らせるの?」

「じゃあ、私もそっくりそのまま返すけど、どうして、私を困らせるの?」が、当時の私の心境でした。言いはしませんでしたが。

 

▼年頃の娘をなんだとお思いで?

全部、全部、吐いてしまえば、体臭がきつい方だったので、洗濯物を一緒にするのも本当は嫌でした。なるほど、これが巷で噂の「お父さんの服と一緒に洗濯しないで!」ってやつか! 普通の女子高校生の気持ち分かっちゃった! と当時感動を覚えたものです。笑

向こうもそれを気づかって、最初はコインランドリーに洗濯しにいったりしてくれていたんですけれども、母が「もう一緒でいいやんな?」と言うから、「うん、そりゃお金ももったいないし、めんどうやもんね」としか言えませんでしたよ。

お風呂だって、一番に入りたかったけど、「早く寝ないとダメだから、アンタは後にしなさい」って怒られたり。そりゃそうだけど、たまには綺麗なお湯に入りたいよ。ちょっとは年頃の娘の気持ち、考えて!みたいな。

頭撫でられるのは、一番大嫌いでしたね。それだけは耐えられなくて「いやだ、頭撫でられるのキライ!」といって、必死に逃げ回るくらい。父親と娘ですら、クリアするのが難しいミッションを、なんでこのオッサンは平気でできるんだ。女子高校生の頭撫でるおっさんの図、ちゃんと想像できてる? 気持ち悪がられると、なんで思わないわけ? どんだけ無神経なの? と当時、憤慨していました。(全国のおじさん、ごめんなさい)

いや、だから何度も言うけれども、考えて欲しいのです。私たちは、小さい頃から一緒に過ごしてきた父と娘ではなく! 愛嬌振りまく人形とその持ち主でもなく! 突如現れたただのおっさんと、お多感な少女! そして私は、〈父親〉なんて存在、ちっとも求めていなかったのです。

 

ぶっちゃけます。離婚も再婚も、子どもには何の関係もない話で、親の都合で勝手に行うものなのです。なおかつ、子どもは親に従うしかない立場なのです。自分の気持ちがいいように、好き勝手に家族の関係を動かす親は、毎日タンスの角に小指をぶつければいいのに、と思っています。

でも、それは、「離婚するな」「再婚するな」と言っているわけではありません。子どもがいるからって、己の気持ちに嘘をつけ、なんて絶対言いません。だって、親も人間ですから、誰かを嫌って、誰かを好いて、誰かと一緒にいたい、と思うのは、当然の話だと思うのです。

でも、それならそれで、否が応でもふりまわされる子どものことを一番に考えてやらなけれなければならなかったのでは、と私は経験上考えます。

単純に、離婚したらしたで、そのぶんの愛情をいっぱい注いでやればいいだけの話ですし、再婚したら、その時は、子どもと、義理の親となるその人の潤滑油として動いてやればいいだけの話。もちろん、それは、再婚する人のため、ではなく、振り回される方の子どもの気持ちに寄り添う形で。

恋は盲目と言いますが、子どもの素直な気持ちを聞き出せないほど、盲目にはなってはいけないと思います。子どもは、親に「これしてもいい?」って聞かれると、「いいよ」としか、だいたい答えられません。だって、お母さん、お父さんのことが大好きなのですから。大好きな人が困っていたら、いいよって言ってしまうに決まってるじゃないですか。

 

私の母の場合は、義理の父の潤滑油として動いていました。義理の父には言いにくいことは、私に「調節してよ」、とお願いすることで、家をまーるくしようとしていたのです。そうです。だから正確には、ウチの潤滑油として動いてたのは〈私〉ですね。

自分の気持ちを全部押し隠して、母の希望にできるだけ応え、義理の父が求める娘を出来る範囲で演じ、母と父と子……、血が繋がっていなくたってこんなに仲良しで、誰からも見ても〈幸せな家族〉に見えるように。その大人たちの要求に、5年ほど耐えていたことになります。

テンパるのはいつも母で、冷静に対処するのが私。感情に任せて、怒り狂うのはいつも母の方で、比較的に落ち着いて話を戻すのも私。そう、母と私は、知らないあいだに、立場が逆転していたのです。

 

▼いや、そもそも家族と認めてませんから

でも、やっぱり私も、元の性質的には我がとても強いですから、やがて、パーンっと爆発しちゃいました。詳細書くと、これまた長くなってしまうので、要約すると、

 

「義理の父の弟の結婚式に出ろ」と言われた私。「いやいや、私めちゃアウェイやん。(というか、義理の父の娘じゃないし、娘として出たくないし)」と拒否したら、「家族に協力できんやつは、家から出ていけ!」と母親が般若のごとく怒り狂った。

いやいや、今回ばかりは私も従えないんだ! と、叔母、祖母に助けてもらいながら胸中を伝えるが、私が式に出たがらない理由がちっともわからないらしい母の怒りは、とどまることを知らず、まさに怒髪天を衝く勢い、もはや話の通じない超サイヤ人に。

これは、私が義理の父の事を嫌い、ということを伝えなきゃ収拾がつかん、ということで、叔母がその旨を母に伝えてくれたのですが、母は「娘が義理の父を嫌っていること」「娘に嫌な思いをさせていたこと」「自分も本当の父が欲しかったから、てっきり娘もそうなのだと思い込んでいたこと」その全てにショックを受けたらしく、音沙汰もなくどこかに消えてしまって警察沙汰になった……、という人様に大、大、大迷惑をかけまくったりの大火事に。

 

結果、こりゃもう一緒に住めないな、と判断した私は、祖母の好意に甘えて、空き家になっていた祖父母の持ち家にお引越ししたものの、母親に何十件と着信入れられるは、ピンポンめっちゃ押されるは、義理の父親死んじゃうわ、となんやかんやとあって、今に至ります。

そのなんやかんやは、興味があればこちらの記事を読んで頂ければ嬉しいです。 

mugi-mugino.hatenablog.com

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▼ありきたりな母と子

私は、とりあえず、どんな話でもきちんと最後まで聞いてくれて、否定せず受け止めてくれる……世界中の全てが敵になったとしても、絶対、母親だけは味方でいてくれるんだ、って信じられる絆が欲しかったし、母には、無条件に甘えられる場所であって欲しかった。時には弱音だって吐くかもしれないけど、日頃は人生の大先輩として頼もしくあって欲しかった。だったら、母のたまの弱音も大切に受け止めることができたのに。

もっとわがままをいうなら、母親と一緒にご飯作ったり、遊びに行ったり、服の見せびらかし合いをしたり。彼氏の愚痴を言ったり、相談したり、普通の親子として過ごしたかった。

実は、お仕事を辞めたことも、未だ母には伝えられていません。しきりに、「大手だから、絶対やめちゃダメ」しか言わない母のことだから、「もうやめた」なんて言った日には、発狂して手がつけられなくなるよね、と祖母、叔母と相談した結果です。

本当は1番に相談したり、話を聞いて欲しいのに、それが叶わないというのは、なんとも虚しくなる話なんですが。だから、私はCMなんかで流れるような、いわゆるあったかい普通の家庭に憧れるんだろうな、って最近特に思います。ないものねだりですね。

 

でも、そんな母でも、私の母であることに変わりなく、〈私たちが親子である〉というのは、何があっても覆らない事実です。

叔母は「親子っていうのは残酷で、どんなに酷い親だったとしても、交換することはできないし、選べないのよな。とっても理不尽で、逃げようのないむぎのちゃんが可哀そう、代わってあげたいくらい。なんなら、今すぐ連れて帰りたい」と涙ぐみながら言ってくれました。けれど、こうも続けました。

「でも、どれだけ可哀そうでも、代わってはあげられない、逃げても、いつかぶち当たらなければならないのが親子なのよな。どうやって、あの母親と付き合っていくか、決めるのはアナタにしかできないことだし、あるいは、突き放すのかを決められるのもアナタだけ。どっちを選んでも苦しいと思う。理不尽だけど、可哀そうだけど、でも、どうしていくかは、全部アナタが決めなければならないことなんよ」と。

 

大恩人である叔母のアドバイスは総じて、いつでも正論で、やや手厳しくてダメージを食らうことも多々あるのですが、いつだって、未来の私のためになっています。

母から逃げられないことに、うんざりすることは、やはり少なくはありません。けれど、いやだ、いやだ、って言ったってどうしようもないし、やり方は間違っていても母が私を愛してくれていることはわかる、別に嫌いなわけでもない。どちらかというと、困ってはいるけど好きだからまた困る、といった感じなのです。だから、私が選んだのは、今、1番自分が楽な距離感で接することができるように、日々過ごすこと。

突き離しもしないけど、週1で電話したり、しつこくかかってくる電話に出なかったり、出来ることはちゃんと自分でやって、って言ったり。今、私はそういう当たり前のことからはじめています。

 

▼おわりに

毒親といっても、私のような過干渉タイプ、それから、暴力を振るうタイプ(うちの母も昔は髪の毛引っ張ったりと酷かったですが、今は落ち着いています)、お金をせびるタイプと、色々といらっしゃると思いますが、もう無理なんだ、とか、でも自分が悪いだけかも、 なんて思ったら、信頼できる、頼れる大人を探して、一度相談してみてください。大人になればなるほど、毒親の束縛から離れるのは難しくなるそうなので、早いことにこしたことはないと思います。 

私は「今より悪い状況になるくらいなら」「親と喧嘩するぐらいなら」、なんて、ありもしない未来を怖がって、毎日嫌なことを耐えて過ごしてきました。でも、じっとしているだけじゃ、じわじわ現状が悪くなるだけで、良い方向にも、悪い方向にも前進しません。現状が変わってしまうのが怖くても、一歩踏み出して欲しいなと思います。

「自分はさ、『誰かが傷つくぐらいなら』って言って自分の痛みをずっと我慢しているけど、そうやって傷つき続けるのを見て、傷つく人がいることを忘れたらダメ」なんて言われたことがあります。私はもう大ショック。「わ、わたしは、自分が一番傷つけたくない人たちを傷つけていたのか……」っていう。じゃあ、私のことを好きって言ってくれる人たちのために、現状を変えることを頑張らなくては、と踏ん張れました。

 

親のことについても、離婚や再婚も……。「アナタが幸せになる道はコレだよ」なんて教えてくれるものはありませんから、選び取るのも、現状を変えようとすることも難しいです。なにか原動力がなければ行動できないでしょう。

でも、自分の人生は、親のためのものではなく、誰かの為のものでもなく、自分だけのものだから、誰かに自分の行く末を委ねてもいけない。誰かの犠牲になってもいけない。自分自身が進んでいく道を、自分で選びとって生きていかなければいけないし、自分の選んだ選択に、責任を持たなければいけません。母親の意志のままに過ごしてきてしまった私は、そのことに気づくのに20年もかかったけれど、それでも、気付けて良かったんだ、と心から思っています。

 

自分が傷つくことで、苦しい思いをする家族や親友、恋人がいることを忘れず、誰もが自分らしく輝けるようになればいいな。もちろん、自分だって自分らしく輝くんだぞ! そんな思いで、自分の経験を綴りました。大変長文になりましたが、最後までご覧いただきありがとうございました。

 

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人が死んで、骨になるまでを眺めたお話

義理の父が亡くなってから、ちょうど1年が過ぎました。

基本的にポジティブで、怖いといえば、エイリアンとか、虫とか、ジェットコースターぐらいだった私が、それをきっかけに、たくさん〈怖いもの〉が増えてしまいました。前の自分よりも、随分と弱点が多くなって、弱っちくなってしまったように思えます。

お話しさせてもらったカウンセラーの先生によると、トラウマは逃げて治るものではなく、立ち向かい続けて、はじめて克服できるものだそうです。

なんとなくわかります。

逃げていたって、いつまでも苦手なものは、苦手なままだったり、むしろ、積み重なった想像が、対象をよりいっそう〈嫌いなもの〉に進化させてしまったり。でも、そんなものでも、がたがた震えならでも戦ったら、そのうち慣れたり、一周半まわって好きになったりするときありますよね。例えば、食べ物とか、高いところとか、運動とか……。

私の〈怖い〉は、好きになることも、平気になることも、ずっと、ずっと果てしなく遠いところにあるように思えて、仕方ないものばかりなのです。

でも、せめて、「ほーん、別に平気だし~?」とか言って、実は震えているのに、鼻くそほじくれるぐらいにはなりたいな、と思っています。私は、ほんのちょっとだけでも、今の自分より強くなりたいのです。

 

これから、私は、私の心の整理をするため、恐怖に打ち勝つため、どんっと前を向くために……。義理の父の〈死〉に関するその全てを、事細やかに振り返っていきます。私が語るのは、「人が死んでから、骨になるまでのお話

それは私の体験談で、いうなれば、ずっと溜め込んでいた〈排泄物〉ともいえます。オブラートに包むこともなく、ありのままを吐き出していくので、そういった話が苦手な方は、この先ご遠慮ください。

 

 

 

 

▼義理の父と実の母、そして私。

私たち三人は6年半ほど、同じ屋根の下で暮らしましたが、義理の父が死ぬ1ヶ月前、実は、私は家出をしていました。

ある喧嘩をキッカケに、母親に「家を出ていけ」と言われてしまったから……。というのもあるし、私自身も、もう、家族が元の関係に戻るのは難しい。母親と離れなければ、この先、もっと母親に依存されることになる、と考えたので、祖父母がむかし暮らしていた持ち家に、一時避難していたのでした。

そこら辺、詳しく語ってしまうと別のお話になってしまうので、〈私の親〉〈毒親について〉〈再婚について〉主軸に語った記事があるので、ちょっと読んでみたい、と思われた方は、そちらに一度目を通していただけると嬉しいです。自分の親が毒親かもしれないと思う人、まだ気付けていないかもしれない人、親の再婚を喜べない人、そんな人の少しの支えになれたらと思います。

mugi-mugino.hatenablog.com

 

話を戻します。

少しややこしいのですが、元々、三人で暮らしていた家と、私が避難した祖父母の家は、同じマンションの中にあって、離れて暮らしているけど、何メートル先かには、大喧嘩中の親がいる。まるで、仲の悪い隣人となるべく鉢合わせしないように、みたいな気まずい距離感の中で、1ヶ月過ごしました。

ごみ捨ても、帰宅時間も気にしなきゃいけないなんて、もうやってられん! お金貯まったら、即引っ越してやる! 鼻息を荒くして、将来設計を考えまくっていましたね。笑

でも、そんなある日、夜中にお風呂に入っていると、救急車のサイレンがドンドン近づいてきて、自分が住むマンションの前に、救急車が止まったのがわかりました。気になって、耳を澄ましていると、救急隊員の方が、義理の父親の苗字、何階、何号室だ、と呼ぶ声が。

あ、なんか絶対、ウチでよくないことが起きている。

ドキリ、とした私は、慌ててお風呂から上がって、急いで服を着て、濡れた髪のまま元の家に向かいました。

一番に思ったことは、言わずもがな「母親に何かあったんじゃないか」でした。

そのときは喧嘩していたし、自分の親の毒母っぷりに心底うんざりしていたし。本当に〈家族〉という鎖が憎くて仕方がない、と思ってた時期だったので、あとから思えば複雑な心境だったのですが、「母親に何かあったのでは?」と思うと、心臓が握られているようで、生きた心地がしませんでした。

 

いざ、家に入ると、救急隊員の方が慌ただしく動き回っていました。義理父は既に運び出されたあとらしく、母親が「息が止まってる、お願い、助けて、助けて」とひたすら叫んで震えているような状態。母親の姿を確認した私は「ああ、自分の母親が何かあったわけではなかったんだ」とひとまずホッとしました。

その次に、義理の父が倒れたんだな。息が止まっている、ということは、スピードが求められているんだな、に思考が至ったので、まるで使い物にならない母親に変わって、私が、救急隊員の質問に答えながら、錯乱している母親が救急車の助手席に、私が後ろに同乗する形で、病院に向かいました。

 正直、その時点では、「無呼吸症候群が悪化したかなんかだろう、どうせ助かるよね」と頓珍漢なことを考えていました。母が、「寝てたのに、『ウッ……』って呻いたあと、ベッドから落ちた」と言っているのを聞いていた、っていうのもありましたし、そのときは、息が止まる病気が思いつかなかったので。でも、病院に向かう道中、救急隊員の方々は、想像以上に緊迫した様子でした。

心電図を見ている方が、

「息がもどるかもしれんのに、止まれって言ったら、すぐ止まってくれ! 大丈夫や!落ち着け!」と、運転している人を追い詰めないように気を使っていながらも、切羽詰った叫び声を上げていたり、心臓マッサージしてくれている人を、「辛いな、でも、もう少しや、もう少しや」と、必死に励ましたり。

心臓を押されるたびに、反動で跳ねあがる義理の父の力ない足……。

それを眺めながら、「ちょっと待ってよ。こんなに救急隊員の方たちが、息を戻そうと尽力しているのに、何かの拍子に呼吸ができなくなったぐらいだったら、そろそろ、呼吸が戻ってもいいんじゃないの。ちょっと、息が止まるのが長すぎやしない?」と、私の心のどこかに、ヒヤッとしたものが走ったのは、今でも忘れられない恐ろしい感覚です。

 

病院に着いて、書類に必要事項を記入したあとは、喧嘩していること、心底うんざりしていること、すべてポイッと外に投げて、「あんな食生活してるから、こんな目にあうんだって、開口一番に言ってビンタしてやればいい」とか「大丈夫、今、先生たちが一生懸命助けようとしてくれているから」とか「義理の父くんは、自分たちを置いてったりしないよ、大丈夫だよ」なんて無責任な言葉をかけたりして、泣きじゃくる母親を必死になだめていました。

だって、まさか本当に、人がそんなにもあっけなくいなくなってしまうなんて、信じられなくて、信じたくなくて。幸いにも、すぐに救急隊員が来てくれたのだから、死ぬはずがないと思いこもうと必死で……。

しばらくすると、先生に呼ばれたので慌てて別室へ。先生は「こういう状況なんです」とレントゲン写真を指さし説明してくれました。私も混乱していたので、よくは覚えていないのですが、「心臓が小さくなって、肺が黒くなっているのがわかりますか? これは破れた血管から、肺に血が流れこんだものなんですが……」という説明だったと思います。

そうして、先生は、こちらを気遣うように、ゆっくりと言葉を選びながら、「色々、手を尽くしたけれど、もう搬送された時点で、手の施しようのない状態でした」という旨を伝えてくださりました。

その瞬間、母が気の狂ったように首を振って、「いや、いや、いや! これからどうやって生きていけばいいの!」と叫びながら、私の腕にしがみついてきたことは忘れられません。私の心に、まずドカンと襲ったのは、「あれ、これって、夢じゃないの?」ということ。亡くなった、死んだ、死んだってなんだろう? って思っちゃって。

錯乱する母、その背を撫でてやるしか出来ない私をみて、先生が、お会いになられますか? と訊ねてくださいました。なおも、いやだ、いやだ、と呟きながらも、義理の父を求める母を抱え、私たちはゆっくりと義理の父のもとへ向かいました。

 

▼死んだ顔が 寝顔のよう

誰が言いはじめたのでしょうね。死んだ顔が寝顔のよう……とは、本当によく言ったもので、私にも、義理の父はただ静かに眠っているだけのように見えました。死んだなんて、まるで嘘のようで、「本当にこれで死んでいるんだ」「本当に死んでいるのかな」なんて、やっぱり何度も、何度も、心の中で問いただして。母が、「嘘やんな、嘘やんな、寝てるだけやんな……」と、話しかけながら、義理の父の頬を愛おしそうに撫でるのを眺めているのを、ただ、ぼうっと眺めるしかありませんでした。

ただ、寝ているだけ。そうとしか思えない私たちに、先生は、現実をみろ、と言わんばかりに、よくドラマで聞くあのセリフを口にされました。「午前何時何分、お亡くなりになられました」と。

その言葉を聞いた瞬間、母は何かに押し潰されるように泣き崩れました。「死んでない、死んでない!」「自分だけは置いていかないって行ったのに!」

横で泣き叫ぶ母、ご家族を今から綺麗にしますからね、と動く看護師さんたち。なんだか、全部が夢のようで、私は、あのセリフって本当に言うんだなぁ。医者に死んだ、って言われて、遺体を囲んで、家族が悲しむシーンって、演出じゃなかったんだなぁ……。

なんて、呑気な考えが頭をよぎったのですが、よくあるドラマの映像をさっと脳裏に浮かべた途端、目の前の現実を、客観的にとらえてしまったんだと思います。「ああ、人が死んだ、って、ああいうドラマみたいなことなんだ……」って。そうすると、目の前の遺体がとんでもないもののように思えて、恐ろしくなってしまって。

これが、本当の家族だったりとか、親友や恋人だったりとか、自分にとってかけがえのない人の死ならば、母のように「悲しい」という感情の濁流に揉まれることになったんでしょうけれど、私にとって義理の父は「母にとってかけがえのない人」だったので、「人があっけなく死んだことが恐ろしい」という、波に私は襲われていました。

 

そのあとは、「信じない、信じない」とひたすらベンチの隅で泣きじゃくる母に、「ちょっと待っててね、連絡しなきゃいけないところに、連絡してくるから」と伝えて、その場をいったん離れました。

義理の父のお母様に、息子さんが病院に運ばれたから、という来院のお願い。義理の父の職場に、しばらく出勤が厳しそうだ、ということ。でも、他にどうすればいいのかわからなくて、ただ、へたに「亡くなった」と伝えて、無駄に混乱を招くのは良くない。そこは配慮するべきだ、しか、もう頭になかったのです。

だから、最後に、自分の親族の中で、一番頼りになる叔母に「義理の父が死んだ。でも、自分だけでは、これ以上どう動いたらいいのかわからない。助けて欲しい」と連絡を入れました。

それから、気持ちを一旦落ち着かせて母の元に戻ったのですが、やはり、母はこの世の終わりみたいにうなだれていました。そうして、やがて、憂いを含んだ笑みを浮かべて、私に言ったのです。「もう、死にたい。耐えられへん……」と。

「あ、この人、実の娘にそんなこと吐いちゃうんだ……」と、もうそのとき、私は唖然としてしまって。これから、共に歩んでいこう。共に土に骨を埋めよう。そう考えていた人が、思う以上に早く逝ってしまったのです。そう思う気持ちもわかるし、そう言いたくなるのも十二分に理解できる。できるけど、例え、それが今だからこそ、ぽろりとこぼしてしまった弱音だったとしても、こんなときでさえ、娘に甘えようとする母親がどうしても許せなくて。

「私には、アナタしか親がいないのに、唯一の娘で母なのに! なのに、私を残して、死んだ人間追うんかっ! 今、自分がそれだけ悲しんでるのを、娘にも味あわせる気なんやなっ!?」と、母の肩を揺らしながら怒鳴ってしまいました。

母は、「ごめん、ごめん」と謝りながら、それからも、ひたすら泣きじゃくっていましたが、正直、もう今はそばに居たくはない、と思ってしまったので、かと言って、本気で自殺されても困るので、向こうの親族の方が来られてから、近くの公園に逃げました。

 

三月です。まだ日が昇りきらぬ朝方です。震える息を吐くと、白くなった息がふわり空を漂って、音も無く消えていって、本当に静かでした。それでも、周囲のお宅から生活音が響きはじめると、なんだか、日常の中にひとり取り残されてしまった気がして。体の芯から凍てつくぐらい、とても寒かった。それすら、どうでもよく思えるぐらい、心がいっぱいなのか、空っぽなのかもわかりませんでした。

当時、身近にいて唯一頼れる人だった恋人、そして、今も、引き続きお付き合いしてくれているおおむぎ君に電話して、「人がさ、死んだのにさ、なんか、悲しいとか感じられない。……これから、あの母親をどうやって養っていけばいいのかな」と、ぽつり弱音を吐きました。

 

▼そこからは、怒涛の毎日

本当に、もうあっという間に、物事が進んで行きました。

「義理の父は死んでないんだ!」と妄言を繰り返す母親に笑うしかなかったり。「自分が一番辛い時に、傍にいてくれないなんて、とんだ娘を育ててしまった!」だのなんだの文句を言われたり。祖父母が来て、叔母が来て、親族が集まって、あっという間にお通夜が終わって。

お通夜の時、義理の父の死に顔を改めて見ました。その顔は、死化粧が施されているはずなのに、異様に顔色が悪くて、頬の肉が垂れ下がっていて。そこにいる人は、もう、私の知らない人のようでした。

死んだその瞬間は、たしかに寝ているみたいだったのに……。たった1日、時間が経つだけで、一気に死人の顔に変わってしまうんだなあ……。そう思うと、身がすくむほど恐ろしくてどうしようもなくなりました。

多分、そのときの私は、やっぱり、人が死んだことを受け止めきれていなかったから、なおいっそう「本当に亡くなった」証明たる死に顔を、まっすぐ見つめることができなかったのだと思います。義理父の顔は、そのあともしばらく見ることができず、お葬式の時の、最後のお別れの時にしか直視することができませんでした。

お葬式は、まともに眠ることもできていなかったせいか、心はいっぱいいっぱいなのに、お坊さんのお経が子守唄でしかなかったことに、どんなときでも、校長の話とお経は眠くなるもんなんだな、なんてまたもや呑気なことを考えていたぐらいなんですけど、火葬のときは流石にそうはいきませんでした。

これから、焼いていきますよ。最後のお別れをしましょう、のとき、私を含め、誰もがこれまで以上に、涙を流していました。

その人の心臓はもう動いていないのに、喋らないのに、笑わないのに、もうそこには、いないとわかっているのに……。動かぬ肉体が燃えてなくなることが、こんなにも惜しく、苦しく、恐ろしいものなのか。

死ぬって、こういう事なんだ。ああ、本当に死んだんだ。

肉体が焼け、骨を見て、私はここで、義理の父が死んだことをようやく実感して、認めることができたように思います。火葬はそういう、肉体があるだけで「本当に死んだのかな?」と思わせる、私たちの信じたくない心、〈依存心〉も一緒に燃やして、本当の「お別れ」をさせてくれるんだな、とぼんやり思いました。

 

余談ですが、火葬を待つ間、食事が出てきました。今、義理の父はどれぐらい焼けたのだろうか、とか考えながら、平気でもぐもぐご飯を食べることができている自分には驚きましたね。(肉が出てきていたら、無理だったかもしれませんが)他の人も、閑談しながら食事を続けているのを見て、(震災のときも思ったけど、人間って器用だよな……)と悶々と考えたり。

火葬中にご飯を食べるという行為は「どれだけ悲しくても、あなたたちは他の生を食らって生きねばならないのです」と、言われている気がしました。

 

▼人が唐突に死ぬこと

人が突然死ぬことに、大きなダメージは受けましたが、義理の父の死が、とても悲しいものとは今でも思えません。それは、私自身が義理の父を必要としていなかった、というのもあるし、最後まで、私が義理の父が好きになれなかったから、というのが大きいでしょう。

でも、私のややこしいところは、「はあ~! 死んでくれて清々した!」とは思えないところ。だって、たしかに嫌なことのほうが圧倒的に多い生活でしたが、全部が嫌ばっかりだったかと言われたらそうでもないのです。

実の子でない私を、6年半も養ってくれた恩もあります。コーヒーを豆から淹れたら美味しいことを教えてくれたのも義理の父でしたし、何度か作ってくれたレタスチャーハンは美味しかったです。旅行だって、誰もが行けるわけでもないもので、一人増えるだけでかかる旅費もドンと増えるのに連れて行ってもらえて。結果として貴重な体験をさせてもらったなあ、と思うからです。

(勿論、行きたくない、と言った私の気持ちを無視した、という話は置いておいて)

私は、母のパートナーとしては、義理の父を認めていました。その優しさは、母のためになるのか? と思うことも多々ありましたが、それでも、義理父が、本当に母のことを愛していたのは、日々の生活の中で十分に伝わってきていたから、ああ、母がこの先添い遂げたいと思う人が見つかって良かった……、と心から思っていたのは事実なのです。

だからこそ、なんで母を残して死んでいったんだ、という、抱いてもどうしようもない恨みもあれば、喧嘩別れして、何も言葉を交わさずお別れしてしまったことに、悔いも残ります。会社を辞めた理由、という別記事でも語りましたが、義理の父が死んだ理由は、生活習慣のだらしなさであることは明白なのに、私はそれを、私が喧嘩を引き起こしたことで、心臓に負担がかかって死んでしまったんじゃないか、という考えから抜け出せなくなってしまったり。

 

さらに私は、しばらく、救急車の音が怖くなってしまいました。音が鳴ると、もう目の前に、力なく跳ねあがる足とか、混沌とした救急車の中の映像が蘇るんですよね。これが、世にいうフラッシュバックだ、ということに気付くのにも時間がかかりました。

他にも、顔色の悪い人に、死人の顔を重ねてしまい、怖くなってしまったり。部長の奥さんが亡くなった、といった訃報をきいたりすると、人が死ぬ、という事実に耐えられなくなったり、急に自分が死ぬのが怖くなって、震えが止まらなくなったり、と、それはもう、笑えるぐらい、グラグラ不安定で仕方なくって。

死後の世界の存在を信じていなかったからか、私は、義理の父が死ぬ前から「死ぬのが怖い」「死んだら思考することができなくなる、自分が消える、怖い」という恐怖を、多分、他の人より考えがちでした。だとしても、死の影が、時折近く感じるぐらいで、日常生活に支障をきたすものではなかったのですが……。

なんの前触れもなく逝ってしまった義理の父の、死んで骨になるまでを見届けてしまって、義理父の死に嘆く、人たちを見つめてしまって……。

それを機に私は、死の影がいつも自分の隣にいるような気がして、仕方なくなってしまったのです。いつああやって死ぬかわからない、いつ呼吸が止まったっておかしくない。そう思うと気が狂いそうで。

 

カウンセラーの先生に、素直に相談しました。

誰だって、死ぬのが怖いのは当然なんですけど、人の死を間近で眺めてしまってから、死ぬのが怖くて仕方ないんです。保険金も、死んだ本人の意思通りにならなかったのを見ていると、幽霊も、死後の世界も、やっぱりないじゃないか、と思ってしまって。死んだあと、何にもなくなる、って考えると、恐ろしくて耐えられないんです。

先生はこう返してくれました。

死後の世界なんて、本当にあるのか、ないのか……。それは誰にもわからないこと。だって、誰かが「ある」って言ったとしても、「ない」って言ったとしても、証明しようがない事柄で、真実を確かめようがないのだから。そういう、答えがないモノに振り回される、思い悩むというのは、一番精神的に良くないです。そういうのは、あるかないかを曖昧なままにしておくのがいいですよ。

 

そうか、曖昧でいいのか。白黒はっきりしなくてもいいんだ。そのときは、ホッと落ち着いたのですが、それでも、救急車の音や、突然恐ろしくなってしまうのは変わりなくて。そういう時は、おおむぎ君に何度も言われました。

「たしかに、自分たちは事故とか、突然の病で明日死ぬかもしれないし、一週間後に死ぬのかもしれない。けど、80歳まで生きるかもしれないし、110歳まで生きるかもしれない。どうなるかなんて、誰にもわからんのやから、いつ来るかわからない「死」を恐れて、毎日びくびくするよりも、いつ死んでも後悔はない、って言えるように、毎日思いっきり生きたらいいやん」

そのとおり、そのとおりだ。わかってるんだ、わかってないけど、わかってるんだよ。怖くなるたびに、支えてもらって、涙をぽろぽろ流しながら、うんうん、頷いて。この一年、その作業の繰り返しだったように思います。

 

そのおかげで、最近は、ようやく落ち着いてはきました。救急車の音をきいても、びっくりするだけ。聞き流すことこそは難しいけれど、あの時の光景がフラッシュバックすることは、そんなに多くありません。

けど、自分で自分の傷口に塩を塗りこむ回数が減ったというだけで、まだまだ完全に吹っ切れたわけでもなく。これまで逃げていたことに、プルプル震える仁王立ちで立ち向かったわけですから、ここまで書くのにも、恐怖で何度もくじけそうになったし、涙もボロボロ流れてしまいました。

おおむぎ君に、ヘルプヘルプ! と両手上げて、これが怖い、あれが怖い、と泣きながら何度お話したことか。でも、泣きながらでも、今こうやって、思い返すことができるようになっただけで、随分吹っ切れたのでは。しかもしかも、なんと、推敲を重ねているうちに、とうとう涙も出なくなりました。これはもう、やったね、自分! と自分で褒めちゃうしかありません。この記事書こうと思った自分、偉い!!!!!

全てが良好に向かって、うんうん、順調順調! と言いたいところなのですが、ひとつだけ、未だに悪循環から抜け出せていないもの、むしろ、悪化しているものがあります。それが「ご飯」です。自分が食べる分は、不思議とそれほど何も思わないのですが、他人に食べさせるご飯だけは、できるだけ自分が作ったものじゃないと、怖くなってしまうのです。これはもう完全に、母が料理嫌いだったこと、義理の父の死因、食生活が影響しています。そこまで語ると、あまりにも長くなってしまうので、別記事、「手作りご飯」にて。

 

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▼あれから

あれから、1年が経ちました。私はおおむぎ君と同棲し、母は、祖母と叔母が今暮らす田舎の方へ越していきました。訳あって、母は分骨が許されなかったのですが、小さな仏壇を買って、義理の父の好きだったものを日々お供えしているようです。何度も言いますが、鬼籍に入ったとはいえ、生前の義理の父を、私は今でも許せません。

でも、全てが嫌いだったわけでもなければ、誘惑たっぷりの現世とオサラバしてしまった人に、あっかんべーするほど根性悪にもなれないので、命日には、生前、義理の父が贔屓にしていた焙煎所のコーヒー豆を、母に送りました。いい香りです。仏壇に添えてあげてね、と。

それでも、1許せば、10許された、100寄っかかってもいい、と考えるタイプの母ですから、「こんな日ぐらい、義理の父の思い出話に花を咲かせてあげたいけれど、今の自分に余裕はないから、そういうことはしてあげられません。ごめんね」と書いた手紙も同封したのですが、それを受けた母が、あの母が「命日を覚えていてくれただけで嬉しい」と電話口で泣いたのです。てっきり、「自分が一番辛いのに!」「こういうときぐらい、話をきいてくれたっていいやんっ!」と怒鳴られると思っていたので、拍子抜けしちゃって。

ああ、母も一歩、一歩ゆっくりだけど進もうとしているんだな……。そう思ったそのとき、私の1年間の戦いが終わり、ようやく春を迎えたように思います。

 

この1年、支えてくれたおおむぎ君。人の死、毒親、社会……、全てに押しつぶされそうになっていた私は、誰とも関わりがないところに行きたい、としきりに思っていました。アナタが懸念していたとおり、どこかでふらっと死んでいたかもしれません。

今だって、たくさん迷惑をかけるけど、アナタが前に言ったとおり、お互い喧嘩できるほど状況は良くなりました。ありがとう。これからは、過去を見つめるのではなく、未来のために頑張っていきます。

 

大変長文になりました。私の溜め込んでいた排泄物に等しい文章を、ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。お口直しに、好きな飲み物でも淹れて、好きな作家様の本を読んだり、ドラマ・アニメ等々を見ていただけばと思います。

 

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